俳優火野正平が、NHK-BSプレミアムの「こころ旅」の番組で、大井ダムの堰堤の天端の通路を恐る恐る自転車を引いて歩いて渡っていた。
この大井ダムは、福沢諭吉の娘婿の福沢桃介が造ったものであるが、近くにもう一つ桃介が造ったダムがある。
大井ダムの木曽川上流13㎞に落合ダムというダムがある。
名古屋からJR中央線(西線)に乗って、松本方面に行くと、中津川駅を過ぎ、落合川駅を通ると車窓の左側にダムが見える。
落合ダムである。
名古屋から列車に乗って初めて木曽川が姿を表す。それもダムの姿をして。
落合川から列車は、坂下(ここまでは岐阜県)、田立(田立駅から先は長野県)と木曽川を右に見る。南木曾、十二兼、野尻、大桑・・・木曽福島・・・・薮原まで木曽川を左に見て進む。
上流に行くに従い、木曽川も小さな川になる。
鳥居峠のトンネルを過ぎて、奈良井の駅では、川は右に見えるが、その川の流れは列車の進行方向になる。その川の名前も木曽川では無く奈良井川であり、犀川、信濃川になって日本海に注ぐ。
鳥居峠が分水嶺である。
名古屋から中央線に乗って、初めてダムとしての木曽川を見る。
その木曽川の水をためているダムが、落合ダムである。
大正15年(1926年)に出来た。
大井ダムより2年後に出来た。
私の高校生の時、早稲田大学の文学部を出た教師が、文学史の授業で、地域に関係する小説家の話として島崎藤村のほかに、
「そこの落合ダムの工事現場で一労働者として働き、小説を書いた作家がいる。」
と云って、もう一人の小説家の話をした。
その作家の名前を、私は忘れてしまい、長い間、どうしても想い出す事は出来なかった。
火野正平が大井ダムまで来たこともあり、落合ダムの工事現場の労働者として生活の糧を得て小説を書いた作家は誰であったか調べて見た。
作家の名前が分かった。
「葉山嘉樹」
と云う作家であった。
福岡県京都郡豊津村(現みやこ町)出身のプロレタリア作家というレッテルが貼られているようであるが、高校の国語の教科書にも作品が載っているということから、優れた小説を残したのではなかろうか。
代表作の一つに、『セメント樽の中の手紙』がある。
短編小説である。
読んで見た。
その中に次のくだりがあった。
「・・・・・・
発電所は八分通り出来上がっていた。夕暗に聳える恵那山は真っ白に雪を被っていた。汗ばんだ体は急に凍えるように冷たさを感じ始めた。彼の通る足下では木曽川の水が白く泡を噛んで、吠えていた。
・・・・・・・・」
上記引用文の中の「発電所」は、落合ダムである。
ダムの堰堤すぐ上流に、恵那山を源とする落合川が、木曽川に流れ込んでいる。
それ故、落合ダムから、落合川の川筋の先に恵那山が聳えるごとく見える。
小説では、冬の恵那山が描かれている。
ダムが造られる木曽川の流れる水を「白く泡を噛んで、吠えていた」と、かっての昔、筏を組んで木曽川の川下りで材木を尾州に運んだ「中乗りさん」を悩ました峡谷の躍動する水の流れを描写する。
この木曽川の水の描写、「白く泡を噛んで、吠えていた」の表現は、源実朝が詠んだ和歌の海の寄する波の描写、「われてくだけて裂けて散るかも」を思い出させ、それに優るとも劣らない。
『セメント樽の中の手紙』後半、女工の手紙が綴られる。
愛しい人を無くした女の悔しさ、切なさを一気呵成に折りたたんで独白するくだりがある。
その独白は長い。小説の主要部分である。
この女の人の独白の文章スタイルは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に登場する女の人の長い独白の書き方にどこか似ている。
葉山嘉樹は、ドストエフスキーの作風の影響を受けているのであろうか。
『セメント樽の中の手紙』は、3000字程度の短編である。
5分位の時間があれば読める。
無駄をそぎ落とした文章の短編である。
ネットにも公開されており、ネットを捜せばある。
一読されることを勧める。
小田切進による葉山嘉樹の年譜(『現代日本文学大系56 葉山嘉樹・黒島伝治・平林たい子集』昭和60年11月10日 11刷 筑摩書房)P422によれば、
・大正13年(1924年) 30歳 この頃、岐阜県恵那郡中津町(現中津川市)に移住。
・大正14年(1925年) 31歳 木曽谷の落合ダムの工事現場で働いた。
・大正15年(1926年) 32歳 1月『セメント樽の中の手紙』を発表。 下宿していた中津町で西尾菊江(通称菊枝 20歳)を識り、西尾家の反発があったが結婚。
「馬鹿にはされるが真実を語るものがもっと多くなるといい。 葉山嘉樹」