私が書いているこの文章は、口語体の日本語の文章である。
新聞、雑誌等が、現在使用している文章と同じ文章体である。
この口語体日本語文章が綴られるようになったのは、いつからであろうか。
「徒然草」の文章は、日本語ではあるが、現在使われている口語体の文章ではない。
明治の文学作品の文章も、現在の口語体の日本語文章ではない。
日常何気無く使用している口語体の日本語文章であるが、それがいつ頃に現在のスタイルになったかを考えたことは無かった。
いつだったか1990年の後半頃と思うが、司馬遼太郎の随筆を読んだ。
その随筆の中で、現在の口語体の日本語文章の確立について書いてある個所があった。
現在の口語体の日本語文章の確立したのは、昭和の30年代であり、それは新潮社が発行している週刊誌の「週刊新潮」が普及させたと桑原武夫教授が言っていると云うようなことを述べていたことを、今でも脳裏に残っている。
週刊誌が、記事内容を大衆が読みやすいように、分かり易い話し言葉の文章で書いたことにより、週刊誌の普及とともに、その文章体が日本の隅々に広がった。
多くの日本人が、その文章体を真似て文章を綴るようになって、現在の口語体の日本語文章が確立したようである。
そうした内容のことが書かれている随筆は、どの随筆であったのか知りたくなったので、図書館に行って調べて見た。
随筆は、『この国のかたち』という本の中の「言語についての感想(六)」(司馬遼太郎全集 第67巻 文藝春秋発行 平成12年2月10日)にあった。
同書61頁で、桑原武夫教授が、
「昭和三十年代、雑誌社が週刊誌を発行してからだと思います。」
と語ったことを記す。
そして司馬は、同書で次のごとく続ける。
「週刊誌は、戦前から昭和三十一年まで新聞社の刊行物とされ、それが固定観念になっていた。しかし昭和三十一年、新潮社がそれを発行することによって慣例がやぶられ、ひきつづきいくつかの大出版社がそれを発行し、当時の流行語でいう"週刊誌ブーム"が現出した。」
さらに続ける。
「このときから、雑誌社が自社の社員や、依頼して記者に書かせることによって大量の文章を世間に配布することになった。」
「それらの文章は・・・・語学的に良質で、文意がつかみやすく、格調も低くなかった。」
「品質向上のために相互に長所を模倣しあうことによってみじかい時間内に共通化がごく自然に遂げられた。」
と述べる。
この分かり易い「文章日本語共通化」が、現在の口語体の日本語文章を確立させたと司馬遼太郎は云う。
週刊誌の「週刊新潮」が、現在の口語体日本語文章を創り上げたということのようである。
▲