○鑑定コラム
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民主党の代表選挙戦が行われている。
菅首相と小沢前幹事長が党首の椅子を争っている。
朝日新聞、読売新聞等大新聞マスコミは、世論調査の結果と称して、首相にふさわしい人として、
小沢一郎 菅直人首相
朝日新聞 17.0% 65%
読売新聞 14.0% 67%
毎日新聞 17.0% 78%
等という支持率を発表する。圧倒的に菅支持が高く、大新聞マスコミを信じれば、菅の圧勝と言うことになる。
一方ネットの支持率は、真逆で、圧倒的に小沢一郎支持で、支持率62〜76%である。
小沢一郎 菅直人首相
読売オンライン 76.0% 24.0%
ライブドア 62.8% 37.2%
グー 63.0% 34.0%
同じ読売系でも、新聞とネットでは真逆である。
新聞とネットで真逆の支持率ということは、一体どういうことなのであろうか。
9月14日には結果は、分かるが、小沢一郎が勝利した場合、大新聞マスコミへの信頼性は地に落ちてしまうことになる。
菅が勝てば、大新聞マスコミの世論調査が正しかったと言うことになるが。
私は、政治家には洞察力が必要であり、洞察力の無い人など政治家と言えないと思っている。
新宿、大阪梅田の駅頭で、小沢、菅は街頭演説を行った。
圧倒的な小沢コール「オザワ! オザワ!オザワ!・・・・・」が、周辺のビルに反響し、駅頭の空高く響き渡った。
この現象について、大新聞マスコミは、小沢支持者の動員によるものであり、作為的に作られたものだと報道するが、動員云々を言うのであれば、それは菅首相側にも当てはまることである。
新宿、梅田の駅頭の小沢コールの後、2010年9月6日、小沢一郎は、地方遊説の先として高知県須崎市に行って、多くない人を前にして街頭演説を行った。
テレビの映像はその姿を映す。
何故高知県の須崎市なのか。
その疑問が私には浮かんで来た。
何か理由があるに違いない。
それは何なんだ。
高知から西に延びる中村街道(現在の国道97号線)は、須崎で伊予に抜ける梼原街道(ゆずはらかいどう 現在の国道56号線)と交わる。
そして須崎港は、イカルス号事件で、英国、幕府、土佐、薩摩の艦船が停泊し談判が行われた処でもある。
高知から中村街道、梼原街道を抜けて伊予に抜ける道は、1862年3月24日夜坂本龍馬が土佐藩を脱藩して、伊予長浜に逃げた道である。龍馬28歳の時である。
明日の新しい日本を作ることを信じて脱藩した龍馬脱藩のルート梼原街道の起点が須崎である。
それから5年後、1867年8月2日龍馬は、越前藩主松平春獄から土佐藩主山内容堂への手紙を託されて、薩摩藩船「三邦丸」で須崎港に入る。
長崎で英国艦「イカルス号」乗組員2人が殺害され、その犯人と疑われた元土佐藩士の海援隊の2人が、土佐藩船横笛、若紫に乗って須崎港に逃げてきた。海援隊は、龍馬が作った私設海軍・貿易会社の様なものである。
それを追って、イギリス公使パークスを乗せたイギリス艦船バジリス号が須崎港に碇をおろした。
幕府艦回天丸も外国奉行を乗せて須崎港に停泊していた。
須崎港には、英国艦船、薩摩藩船、幕府艦船、土佐藩船が停泊して、一触即発の状態であった。
龍馬は長崎に向かうため「三邦丸」から、土佐藩船「夕顔」に乗り換えていた。
イギリス公使パークスは、土佐人が犯人であるとして談判を申し込んできた。
会談の代表を務めた後藤象二郎は、同港に停泊していた藩船夕顔の船上で交渉を始めたが一切を認めず、長崎で再交渉することで、パークスはやむなく帰って行った。
龍馬が携えてきた越前松平春獄の山内容堂への手紙は、恐らく「大政奉還」に関する重要な手紙では無かったかと、私は推測する。
このとき龍馬は33歳、須崎のイカルス号事件のパークス公使談判決裂後の3ヶ月後の11月15日、龍馬は中岡慎太郎とともに、京都近江屋にて、何者かによって殺害されるのである。残念である。誰がこうした愚かなことを指図し実行するのか。
小沢一郎は、何故高知須崎を地方遊説第一声の地に選んだのか。
果たして小沢一郎は、坂本龍馬を考えて高知須崎を地方遊説第一声の地に選んだのか。これは本人以外分からない。
鑑定コラム978)「正平、鞆の浦を行く」
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