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693) 藤村記念館と中学同窓会

 2010年9月中旬の日・月曜日に、岐阜県中津川市の旅館で開かれた中学の同窓会に顔を出した。

 今回は、中学3年の担任の恩師が出席されると聞いたので、是非とも参加しなくてはと思い参加した。恩師と呼べる先生と会えるのが、これが中学卒業以来最初で最後と思い、参加した。

 前日・前々日の金曜日と土曜日は神戸での仕事だった。翌日曜日に故郷に直行して、父母の墓参りをして、午後4時集合という中津川の旅館に向かった。

 大きな岩が周囲にゴロゴロしている山の中の古びた旅館であった。
 19人の同窓生が参加した。
 中学以来初めて会う人もいた。

 恩師はやって来た。歳を聞けば85歳という。元気である。
 学校では数学を教わった。

 恩師は旧制八を出ておられた。
 授業中によく、八と四の対抗戦の話をされていた。
 私は、授業よりもそれらの話の方が記憶に残っている。

 大学を選ぶ時、旧制八の名古屋大学か旧制四の金沢大学かどちらにするか迷った。
 結局旧制四の伝統を引き継いでいる金沢の大学を選んだ。
 恩師の話の影響があるかもしれない。

 恩師にその旨話すと、金沢は学生を暖かく迎え、大切にしてくれる街であり、君の選択は良かったと言って下さった。

 恩師は旧制八の応援団長として、2度金沢に行ったという。破れ帽子に羽織袴と高下駄で、金沢駅に降り、応援団旗を立てて大声で叫んだものょと話される。

 「第八等学校、ただいま金沢に降り立たん。第四等学校に闘いを挑み、負かさんと参上仕った。!」

 これに対して、迎えに来た第四等学校の応援団が迎えの応答をし、金沢の街を宿泊する寮まで応援歌を唄いながら練り歩いたと、昔を懐かしみながら話される。

 そして四の応援歌である「南下軍の歌」(明治40年 高橋武済作詞 梁瀬成一作曲)を口ずさまれたのには、驚いてしまった。

 アイン ツバイ ドライ
       ただに血を盛る瓶ならば
         五尺の男児要なきも
       高うつむねの陣太鼓
       ・・・・・・・・・

 昭和16年の琵琶湖での四ボート部の遭難も良く覚えていると話された。
 そして旧制八時代は戦争を挟む動乱の時期ではあったが、それも恩師にとっては青春の懐かしい時代であったと、昔を想い出すごとく楽しく話された。

 旧制八を出て何故新制の坂下中学の先生なのか、私には長い間の疑問だった。
 東大に進学されても、何ら不思議では無い。

 その理由を恩師は話してくれた。
 他人に話すのは、私が初めてであるという。

 翌日は、今は岐阜県中津川市に編入した島崎藤村の藤村記念館の馬籠と峠を超えた妻籠の宿を見学することになった。

 久しぶりの藤村記念館である。
 昔は「藤村堂」と呼んでいたが。
 中学の時、ここに遠足に来たことを懐かしく想い出した。

 藤村記念館の庭で、木曽谷の樹々を見ながら佇むと、迷っていた青春時代の苦い思い出と後悔が想い出されてきた。


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