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705) 「龍馬の裏書き」を熟視

 お堀端の大手門の前のパレスホテルは建築中であった。

 2010年10月のある土曜日、皇居大手門より入って右側にある宮内庁三の丸尚蔵館に行って来た。

 皇室が所蔵する5万点の公文書の中より、皇室の文庫である書陵部が所蔵する名品の幾つかを一般公開すると云うことを聞いたので、訪れたのである。

 公開の名品の中に、今回初めて「龍馬の裏書き」が公開されると知った。

 これは人生において、もう二度とお目にかかれないであろうと直感し、仕事を放り出して見に行ってきた。これでは依頼の鑑定評価の仕事は、ドンドン遅れて期限までに出来なく、遅れて申し訳ありませんと依頼者に謝ることになるのは当然であろう。

 宮内庁三の丸尚蔵館の所蔵品の公開部屋は狭かった。

 しかし、その狭い部屋の真ん中に、目的とする「龍馬の裏書き」の巻物があった。ガラス越しであるが、巻物は読み取れる様に開かれていた。

 じっくりと本物を見ることが出来た。
 朱書きで書かれており、最後に「坂本龍」と書いてある。

 筆を持って坂本龍馬がそこに座って、一字一字書いている姿が、そこにあるのでは無かろうかと時空を超えて思えてきた。

 「龍馬の裏書き」とは何か。

 徳川幕府を倒さんと、当時の倒幕の二大勢力であった長州と薩摩とが、互いの怨念を超えて手を結び、倒幕の密約同盟を龍馬の仲介で行った。

 その密約同盟に証人として立ち会った坂本龍馬が、同盟書の裏に、その同盟が事実であることを署名明示したものである。

 倒幕の意はあるが、反目し合う長州と薩摩とを手を結ばせたのが坂本龍馬である。これが為に幕府から反逆者として命を付け狙われることになるが。

 薩長同盟を成し遂げたのが、坂本龍馬の最大の政治的な功績である。
 その業績は、龍馬が並の人でなく、卓越した人物であったことを示すものである。

 「竜馬が行く」の著者である司馬遼太郎は、その著書において、この薩長同盟の密約と龍馬の朱の裏書きについて、次のごとく述べる。(文藝春秋・文春文庫(六)p245)

 「筆者は、このくだりのことを大げさでなく数年考えつづけてきた。
 じつのところ、竜馬という若者を書こうと思い立ったのは、このくだりに関係があるといってもいい。」

という。

 つまり、司馬遼太郎が坂本龍馬の最大の見せ所、即ち龍馬が政治家として評価されるところとは、薩長同盟をさせたということであると判じている。

 当時薩摩と長州が手を結べば、幕府は倒れるということは、誰しも思った考え方であったようである。

 岩倉具視も中岡慎太郎も思っており、その考え方は、ある意味で「公論」であったのである。

 しかし、議論や考えを述べるだけで、それを実行させる者は誰も出来なかった。出来っこないと龍馬を除いては誰しもが思っていたのである。
 
 司馬遼太郎は同書で続ける。

 「竜馬という若者は、その難事を最後の段階では、ただひとりで担当した。」

といい、司馬遼太郎は、龍馬を高く評価する。

 薩長は、双方お互いに連合したいが、互いにメンツがあって、自分から言い出せない。

 桂小五郎も西郷吉之助もである。

 話が決裂しそうになった時について、司馬遼太郎は次のごとく描写する。

 「この段階で、竜馬は西郷に「長州が可哀そうではないか」と叫ぶようにひとこといった。
 当夜の竜馬の発言はほとんどこのひとことしかない。
 あとは西郷を射すようにみつめたまま沈黙したからである。
 奇妙といっていい。
 これで薩長連合は成立した。」(文春文庫(六)p246)

 薩長連合のことは、薩摩藩より長州藩に申し入れようと西郷が云い、翌日慶応2年正月21日、薩長両藩の会盟の日となる。

 朝10時より始まり、夕刻同盟の秘事は成立した。
 それは6条よりなる。

 司馬はいう。

 「桂とは妙な男である。これ程までに感動していたくせに、なお、薩人を全面的に信ずることができず、「また薩人がわれわれをだますかも知れぬ。すまぬが大兄の裏書きがほしい」と裏書きを求めたのである。」

 これが「密約の龍馬の朱書き」である。

 その歴史的書類が宮内庁に保管されていて、宮内庁書陵部が初めて公開したのである。

 木戸孝允より寄贈されたと宮内庁は附記する。

 木戸孝允即ち桂小五郎である。

 桂小五郎は明治政府を樹立し、新政府の重要人物になった。
 その後桂が思うに、薩長を同盟させ、大政奉還の考えを示し、その道筋をつくり、新しい日本という国を作る途中で、龍馬は暗殺されてしまった。坂本龍馬こそが現在の明治政府を作った人であることを皇室に認めさせる為に、皇室に龍馬の裏書きのある「薩長同盟書」を寄贈したのであろうか。

 龍馬の年譜を見ると、

 1866年(慶応2年 龍馬32歳)
    1月21日  薩摩藩邸で薩長密約攻守同盟成立
1月22日  坂本龍馬、木戸寛治、小松帯刀、西郷吉之助と会談
1月23日 木戸寛治、盟約書の裏書きを求め坂本龍馬に発送
1月24日  坂本龍馬、三吉慎蔵、寺田屋で襲撃される。その後伏見薩摩藩邸に潜伏
2月5日   坂本龍馬盟約書に朱の裏書きをする

である。
 薩長密約の3日後に、龍馬は寺田屋で襲撃される。
 左手に大きな傷を負いながら、2月5日に密約書の裏に、朱書で下記のごとく書く。


 「表に御記被成候六条は小、西両氏および老兄、竜等も御同席にて談論せし所にて、毛も相違無之候。将来といへども決して変わり候事無之は、神明の知る所に御座候。
 丙寅二月五日         坂本龍」


 上記の裏書きの「小」は小松帯刀、「西」は西郷吉之助、「老兄」は桂小五郎(改名して木戸寛治、再々改名した木戸孝允)、「竜」は坂本龍馬である。

 歴史上の重要で大切な証しである「龍馬の裏書き」を、私は直近でガラスに顔をひっけるごとく熟視した。龍馬の文字を頭に刻み込んだ。


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