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1148)ネルソン・マンデラが東京に来たとき

 ネルソン・マンデラ氏が、2013年12月5日、95歳の人生を終えた。

 南アフリカの白人中心のアパルトヘイトと闘い、27年間の獄中生活を味わった。
 1990年2月に刑務所から釈放された後、黒人の白人への報復を許さず、人種の融和を説き、平和的に民主政権への移行をやり遂げた。

 1994年に南アフリカの全人種の選挙によって大統領に就任した。

 インドのガンジーに並ぶ偉大な民族指導者である。

 2013年12月10日にマンデラ元大統領の国葬が、ヨハネスブルクで行われた。
 アメリカのオバマ大統領のほか、世界のおよそ100ヶ国の首脳が参加した。

 日本からは皇太子殿下が御参列なされた。
 政府特使として福田康夫元首相が参列した。

 マンデラ氏は、1990年東京に来た。

 氏が27年間の牢獄生活から解放されたのは、1990年2月であった。

 その8ヶ月後に、マンデラ氏は日本を訪れた。

 1990年10月27日夕にマンデラ氏は成田に降りた。
 手を振りにこやかな顔をして、日本の土を踏んだ。
 その柔和な人なっこい笑顔を私はテレビで見て、この人が27年間も過酷な監獄に閉じ込められていた人なのかと驚いた。

 マンデラ氏は日本に何しにやって来たのか。
 親善の訪日であることは間違い無いが、もう一つの目的は、日本に経済援助の申し込みであった。

 それは、亡命から帰国する活動家や、釈放される政治犯の人々の生活の為の経済援助を日本政府から得ることであった。

 経済援助の申し込み金額は2500万ドル、その当時の円で約32億円であった。

 この経済援助の申し込みに対して、日本政府は「ノー」の返事をした。

 南アフリカは、金、ダイヤモンドのほかレアメタルの宝庫であった。
 その当時ですら既に日本は、南アフリカから多くのレアメタル等を輸入し、南アフリカにとって有数の貿易相手国でもあった。

 そうした状況にあるにも係わらず、日本政府は、マンデラ氏の32億円の援助申し込みを拒否したのである。

 拒否の言い分は、「特定の政治団体への直接援助は出来ない」という理由である。

 インドやインドネシアは、500万ドル、1000万ドルの経済支援をマンデラ氏に約束しているのであるのに、日本はゼロである。

 これが20数年前の日本政府の考え方であったのである。

 その時の首相は、海部俊樹氏であった。

 日本政府の経済援助が得られず、がっかりして日本を離れるマンデラ氏の姿を見るのは忍びがたかったことを私は思い出す。

 ネルソン・マンデラ氏が東京に来たとき、日本はどういう状況であったのか。

 1990年は、元号で云えば平成2年である。

 平成2年といえば、平成バブルの真っ盛りの時である。

 金融の超緩和がなされ、お金があふれ、不動産の価格が馬鹿上昇していた時である。

 日本経済新聞の1990年(平成2年)10月29日のトップ記事は、

      「土地融資規制化が浮上」

とある。

 銀行の不動産融資の過熱を防止する政策が、この後に法案化される。

 国土利用計画法による土地取引の届け出制、金融の総量規制、土地転売目的の融資の禁止、迂回融資の禁止等の政策が次々と出される。

 そして新土地税制の見直しである。

 特別土地保有税の創設、土地譲渡所得税の強化、固定資産税の改革である。

 固定資産税の改革政策は、固定資産税の評価額は地価公示価格の7掛けにするという政策が数年後に実現することになる。

 現在、日本全国の不動産鑑定士の大きな収入源となっている地方自治体からの固定資産税価格評価が産まれれようとしていた時期である。

 その時期の日本のGDP、日経平均株価、為替レートはどれほどであったろうか。下記に記す。1990年10月30日時点の数値である。GDPは1990年9月季節調整済の数値である。
  
      名目国内総生産(季節調節済)     418兆円
           日経平均株価                    25,242.40円
           1ドル                             129円

 国際的には、1990年8月にイラク軍がクエートに侵攻した年である。


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