愛知県の岡崎に行って来た。
岡崎を訪れるのは初めてである。
徳川家康の出生地であり、江戸幕府直参旗本の故郷でもある。
岡崎へは、不動産鑑定の仕事である。
評価地の近くに大友皇子の墓があると地元の案内人が云うので、そこを訪れた。
「小針古墳」と呼ばれ、それが大友皇子の墓と案内者は説明する。
古墳の前に、案内板があった。
その題名は、「小針古墳と大友皇子(第三十九代弘文天皇)の塚」と書かれ、次のごとく概略書かれていた。
「この古墳は往古から大友皇子の塚だという伝説がある」として、大津京を開いた大友皇子(天智天皇の長子)は、天智天皇の弟大海人(おおあま)皇子(第四十代天武天皇)が吉野で挙兵し、近江を攻め、大津宮は兵火にあって焼け落ち、大友皇子は敗れて自害した。(西暦672年、御歳25才)。
世に云う「壬申の乱」である。
それは、今で云えばクーデターである。
私は、大友皇子は大津で自害したと思っていた。
それが、そうでは無く、案内板には、次のごとく書かれている。
「大友皇子は自害したといいふらして、ひそかに一族の者数名と三河にのがれ、大海人皇子の謀反を怨み悲憤に暮れたが、ついにこの地で崩じ、小針字神田に葬られた。従者長谷部信次が神社を創建し皇子を祭祀した。これが大友神社である。大友という村名もこれに起因する」 (西大友町に鎮座する大友神社の「社志」による)
小針字神田に葬られたと記してある。その葬られた墓が小針古墳であると云うのである。
大友皇子は、壬申の乱で大津で自害せず、逃げ延び三河岡崎で死んだという伝説である。
大友皇子に生き残って欲しかったと思う人が多くいて、こうした伝説が言い伝えられているのであろうか。
何だか源義経は衣川で死んでいなく、戦に敗れたが逃げ、蝦夷地から蒙古に渡りジンギスカンになったという義経伝説に良く似た伝説である。
義経伝説を推理小説にしたのが、推理小説家高木彬光の『成吉思汗の秘密』である。
高校時代だったか、その推理小説を読んだ。小説出版後あまり年月が経っていない頃であったと思う。
多くの証拠と飽くなき推理を駆使し、正反合の論理を使って、歴史に切り込む斬新な推理小説の手法に驚き、大変面白かったことを記憶している。判官贔屓が益々判官贔屓になってしまったと感じたことを思い出す。
史実は史実、伝説は伝説でよい。
愛知県の俊才が集まる名門高校として名が高い地元岡崎高校の日本史の授業では、「壬申の乱」の大友皇子の最期について、どの様に教えているのか興味が湧く。
▲