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1733)園部逸夫先生の話を聞く

 「16歳で台湾で兵隊に召集され、銃を担いで、台湾の山の中にいた。あと1、2ヶ月戦争が続いていたら、台湾の山の中で死んでいたであろう。」と冗談交じりの言葉から、話は始まった。

 2018年1月10日に、銀座7丁目のライオン銀座7丁目店の6階ホールで、旧制四生・金沢大学卒業生の集いの会である『北の都会』が開かれた。

 2018年新年早々の会は、昭和24年旧制四卒の園部逸夫先生の話であった。

 園部先生の話など滅多に聞けるものでは無いことから、私は『北の都会』に年一回程度しか最近は出席していないが、今回は園部逸夫先生の話を聞きたいと思い参加した。

 園部逸夫氏は、岐阜県出身である。旧制四から京都大学に進まれ、京都大学法学部助教授となられる。

 京都大学助教授から、東京地裁の裁判官になられる。裁判官のほか最高裁判所上席調査官を経て、再び学者の道に戻り、筑波大学の教授になられる。

 平成元年から11年まで最高裁裁判所の裁判官を務められる。

 最高裁の裁判官を退官後、平成16年小泉内閣における皇室典範に関する有識者会議座長代理に就任される。

 翌年11月に、皇室典範の女系・女帝容認の改正を提言されている。

 提言は、そこでストップする。

 話の中には、この件のぼやきがあったが、生臭い話であり、ここまで。

 戦後の日本の学制についての話もあった。戦後日本の学制については、厳しい見方をされているようである。

 アメリカの戦後占領政策の一つの日本の学制改革は、どこの国の学制をモデルにして、日本に導入したのか分からないと云う。

 アメリカの学制を取り入れているが、必ずしもアメリカの学制をそっくり日本に導入しているわけでは無い。

 戦前の日本の教育制度は、複線であり、選択の余地が多くあった。戦後日本の教育制度は単線であり、失敗であると述べられる。

 個人的に園部氏に、顧問をされている虎ノ門の法律事務所に過日打合せに行って来ましたと話したところ、つい最近そこの顧問を辞めたとのことであった。

 理由をお聞きしたところ、もう歳だからと笑いながら話された。齢89歳の園部逸夫氏の柔和な笑顔であった。


  鑑定コラム1734)
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