「高裁の判決文を読んで頂けましたか。
どう思われますか。」
と弁護士から電話が架かってきた。
「依頼者が、不動産鑑定士の田原さんの意見も聞いて、その意見を参考にして、上告するかどうか決めたいと云っておりますので。」
と弁護士は続ける。
弁護士から送られてきた高裁の判決文を読まずに放置していたのではない。
判決文に目を通したが、判決には私の鑑定評価の意見をうまくかなり取り込んでおり、どの様に返事をすれば良いのか考えあぐねていたのである。
最高裁に上告するべきか否かに迷い、するとしても私からすべしと云って良いものかどうか迷っていたのである。
案件は店舗家賃の改定事件であった。
一審の地裁の判決は、不動産鑑定士の鑑定評価額をそのまま採用して約60%もの賃料増額の判決を出してしまった。
その不動産鑑定評価には、多くの不動産鑑定評価上の間違いが見られたが、裁判官は全くその間違いに気づかず、あるいは分からないのか、もしくは不動産鑑定の専門家の判断意見であるということで信じ込んで判断を放棄してしまったのか、その鑑定評価額をそっくり採用したのである。
賃貸人は子会社、孫会社まで含めると数百の関連会社を持つ日本を代表する大企業の一つである。
ある弁護士がぼやいていたことを思い出した。
その弁護士のぼやきとは、「裁判官の中には、役所や大企業や公益団体は悪いことをしなく、役所や大企業や公益団体の行うことは正しい。悪いことをするのは個人や小さい会社であるという予断を持っている人がいるのではないかと感じられる。役所や大企業は正しいことを行うのであるから、それにたてつく個人や小さい会社を弁護・代弁する弁護士は、ろくでもない悪い弁護士だと思っているのでは無いかと感じる時がある。」という内容だった。
賃借人側は高裁に控訴した。
その際に、私に賃料の鑑定を依頼し、私の不動産鑑定書をつけて控訴審を争った。
高裁の判決は、一審の判決が採用した不動産鑑定を否定し、全く採用せず、一審の判決の賃料増額を大幅に減額する判決を出した。
賃借人有利の判決である。
私の鑑定書の与えた影響が大である。それは依頼者もその代理人弁護士も認める。
しかし、賃料値上げされるべき事由が本来無いのにと思っている賃借人にとっては、値上げの判決が出されたことに対して、賃借人はなお不満をもつ。
判決は随所に私の鑑定評価を引用し、鑑定の分析内容を認めつつも、時には採用するには具合の悪い部分は否定しつつ、最後は試算価格の調整と決定で、何の根拠説明もせず、最も高く求められている差額配分法の賃料を、最も低く求められているスライド法の賃料の3倍の割合で採用して賃料を決定し、判決する。
差額配分法の賃料が、スライド法の賃料の何故3倍の割合であるのかの説明は一切ない。高く求められている賃料を、安く求められている賃料の3倍の割合で配分すれば、得られる賃料は当然高い賃料になろう。
数年前の価格時点の賃料である。
経済事情は現在(2005年)よりも悪く、新規賃料、継続賃料とも下落状況の中にあり賃料が上昇するという経済環境では無い。
まして、合意賃料はバブル経済の絶好頂の平成2年の頃の、甚だ高い賃料がそのまま引き継がれている状態である。
それらを考えれば、良くて据え置き、一般的には賃料減額と考えるのが妥当の案件である。
しかし、裁判官も人の子か。一審の裁判官の立場を慮ってか、従前合意賃料よりも増額賃料の判決であった。先に結論ありきで、批判され間違いの目立つ一審採用の不動産鑑定を採用することはさすがに出来ず、不採用とし、結論に結びつけるために、私の鑑定書の都合の良い記載内容部分を採用して判決を出したのではなかろうかと勘ぐりたくなる判決である。
賃借人が筋の通らない判決と怒るのは無理がない。
賃借人の代理人弁護士は、一向に私からの返事が返ってこない為に、しびれをきらして私に電話してきたのである。
私の迷っている点、判決のおかしな点を弁護士に話した。そして問うた。
「先生。高裁の判決文の中に、最高裁への上告理由となるものがありますか。
最高裁の判例違反となる理由が、私には分かりませんが。」
高裁の裁判官もさすがに頭がよい。
最高裁に上告されることを意識的に避けていると思われるごとく、法律解釈で上告理由にならないように、それら要因をことごとくつぶした判決文となっている。
そして私は弁護士への質問を続けた。
「依頼者は上告する覚悟をしているのですか。」
「依頼者は最高裁で争っても良いと云っている。
最高裁への上告理由はある。」
と代理人弁護士は云う。
依頼者が上告しても争うという強い決意があると聞けば、見捨てておけない。 私としても、それに全面的に協力しなければならないだろう。
「ならば、高裁判決のなかの鑑定評価に対する間違いを指摘する書面を作ります。
時間はいつまでですか。」
と私は問うた。
「今日の夜中の12時までが上告期限だ。」
と弁護士はいう。
「エッ、今夜の12時が上告期限ですか。
それまでに上告理由を書いて最高裁に提出するのですか。」
と私は弁護士に聞き返した。
「そうだ。」
と弁護士は云う。
「間に合いますか。」
「まだ6時間ある。
判決の中の鑑定評価の問題点を至急書いて欲しい。」
と弁護士は云う。
残された時間は僅かである。時間との闘いであった。
午後8時を少し過ぎた頃までに、高裁判決の中の鑑定評価の間違いを指摘した文書を書き上げた。そして弁護士へFAX送信した。
「間に合いますか。」
と再び聞いたところ、
「間に合う。」
という返事が返ってきた。
そして弁護士に上告理由を聞いてみた。
弁護士は、最高裁判所の判例はもとより、大審院のものまでさかのぼり、賃料に関する判例を調べ上げていた。
調べ上げた多くの 最高裁・大審院の判例の中から一つ、今回の高裁判決は違反していると説明した。
それが何かはここでは述べることは出来ないが、その弁護士の上告への周到な用意、法律家としての正義への執念には恐れ入ってしまった。
翌日、弁護士事務所に電話したところ、昨夜期限までに最高裁判所に上告しましたという返事が返ってきた。
ついに、私が関与した賃料の不動産鑑定が最高裁判所に上告された。
さてどういう判断が下されるか。