○鑑定コラム
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ある会合があった。不動産鑑定とは関係ない話である。たまには文学的香りを。
参加者の中に懐かしい人の顔があった。
若き頃、寺山修司と親交があり、私に句集『青春の光芒』(発行所 有限会社 テラヤマ・ワールド 2003年) を署名入りで贈呈してくださった人である。
その句集は寺山修司没後20年記念復刻で、3人の句集をまとめたものである。
3人とは、私に本を贈呈してくださった人、林俊博、吉野かず子の3人である。
いずれも寺山修司と親交のあった人である。
その句集の帯に川名大氏が、次の様な紹介文を書いている。
「戦後派俳人の台頭後、第四世代の先駆けをなした十代の同人誌「牧羊神」。コッペパンを齧りつつ、俳句にいちずな情熱を傾け、競い合った若者たち。寺山修司没後20年、寺山らと競い、詩才を愛された旧同人三俳人の駆け抜けた俳句の青春が、今、ここによみがえる。」(川名 大)
私に句集を贈呈してくださった人の句、
こがらしや古書売り古書を買いにでる 山形健次郎
句集を贈呈してくださった人は、山形健次郎氏である。
岩波ジュニア新書447の復本一郎著の『青春俳句を読む』で、上句が次のごとく紹介されている。
「山形健次郎は寺山修司の俳句グループ「牧羊神」の仲間の一人です。
右の句(縦書きであるため「右」となる・・田原注)は、健次郎が18才の時に出した句集『銅像』の中に見える作品です。今から約50年前の高校生の姿です。健次郎は修司と同じように早熟だったのかもしれませんが、すごいですね。高校生で、すでに右の作品のごとき世界を持っていたのですから。
・・・・・・季語「こがらしや」が、貧しく、侘びしい健次郎の気持ちを読者に伝えるのに効果的に働いています。」
寺山修司が山形健次郎の句集に跋文を書いている。その中で修司は山形健次郎の俳句について、次の様に言っている。
「悲劇を俳句の中に移植させて現代人の生き方の一例を誠実に画きだしたということだけでも私たちは山形健次郎の作品を読む価値があるのではなかろうか」
という。
そして、
「戦後を生きぬいてきた十代の中でも、彼はもっともまじめであり正直であった。」
と言う。
ガード冬磨くはどれも軍靴ならず 山形健次郎
この句に対して、修司は、
「巨大な一つの「悪」に対する彼のイロニィであり、しかも具象物と巧みにむすびつけて詩情を保っている 」
と感想を述べる。
そして寺山修司は、山形健次郎は「数少ない私の親友の一人である」と紹介する。
上の句は、歌手宮城まり子が歌った「ガード下の靴みがき」(作詞宮川哲夫、作曲利根一郎、ビクター、昭和30年発売)の、その歌をまさに凝縮した句である。
上野、神田、有楽町、新橋のガード下で、靴磨きをして自らが金を稼がなければ生きて行けなかった少年の姿、それは私の年代の戦争孤児の少年の生きる姿である。
何だか知らないが、先生だったか医者だったか忘れたが目をつぶっておれと言われて、丸刈りの坊主頭に、消毒・殺菌なのかDDTの白い粉を振りかけられた時代である。
五分刈の頭にしむ雪よ何か待つ 山形健次郎
この句に対して寺山修司は、
「ここにもっとも彼のかなしさを私は感じると同時に、彼の作品中ただ一つのセンチメンタルを発見してうれしくてしょうがなかった。」
と跋文・批評を締めくくる。
寺山修司が賛辞した山形健次郎氏に久しぶりに会うことが出来た。
こがらしや古書売り古書を買いにでる
「 こがらしや古書売り・・・・・ 」を口ずさみ、しばし瞑想する。
木枯らし吹く冬の日、神田の古本街を古本を抱え、古本屋を徘徊彷徨する若き学生の姿が思い浮かばれる。
何を言おうが、しかし、いい句だ。
鑑定コラム833)「万葉集に遡るほかいびと」
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