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350)上高地

 上高地の山岳風景が、五千尺ホテルの提供するライブカメラで見る事ができる。

 梓川に架かる河童橋から、岳沢の上に連なる穂高岳連峰の現在の景色が見られる。
 日本の山岳風景の最高のショットの景色である。

 現在の上高地の映像を見るには、下記のアドレスをクリックすれば見られます。但し夜は見られません。
   http://www.gosenjaku.co.jp/livecam/
 (注)ネットスケープでは見られない場合があります。
 
 1967年8月1日、今から40年前の夏、日本山岳史上最大の山岳遭難事故が発生した。

 松本深志高校生の西穂高岳独標での落雷による遭難事故である。11人が死亡、10人が重軽傷を負った事故である。

 その日、私は槍ヶ岳に登っていた。
 朝、槍ヶ岳は晴れていた。槍の穂先に立ち、さえぎるものが何もない視界360度の、槍ヶ岳を登った人のみが味わえる天空の眺めを楽しんでいた。
 午前中は、およそ3000mの高さの槍沢のお花畑で昼寝でもして、テントの張ってある徳沢に帰ろうと予定していた。

 槍ヶ岳の頂上から山荘に戻ったら、山小屋の主人が、
 「低気圧が近づいている。昼頃には天候が崩れ、大荒れになりそうだ。
 上高地に戻るなら早く下山せよ。
 横尾の橋が流れたら、2、3日動けなくなる。」
と教えてくれた。

 現在は晴れて青空が見える。
 本当に天候は大荒れになるのだろうか。
 半信半疑であった。
 だが、槍ヶ岳の山小屋の主人が言うのであるから、それは本当であろうと信じ、横尾で足止めを食らっては大変と、大急ぎで荷物をまとめ下山することにした。
 槍沢のお花畑でのんびりと昼寝どころでは無かった。

 槍沢の沢は広く長い。普通は槍ヶ岳に登る人は上高地から入ら無い。
 燕岳から北アルプス裏銀座と呼ばれる縦走コースから槍ヶ岳に登り、帰りに槍沢を降りて上高地にでる。それは上高地から槍ヶ岳に登るルートは、距離が長く時間が掛かり疲れるコースであるためである。
 私は、上高地から途中の徳沢にテントを張り、槍ヶ岳に登るという逆のコースをとって槍ヶ岳に登っていた。

 身を隠すものが何もない広く長い槍沢で雷に遭ったらたまらない。命を落とす危険性もある。山の落雷は怖い。その槍沢を駆け下りきったあたりで雨が降ってきた。
 山小屋の主人の天候の予告は当たっていた。
 落雷が響く。
 雨の中を走った。
 横尾の橋を早く渡りきらなければならなかった。
 横尾の橋は、まだ増水した濁流で流されていなかった。
 落雷の轟く雨の中を、ガラ場の道、白樺林の道、熊笹の道を若さの勢いで、徳沢まで高低差約1500mを一目散で走り下った。

 徳沢に着いた時には、落雷も止み、雨は上がり青空が見えていた。
 何も急いで下山する必要もなかったかと思う位だった。

 徳沢の樹々の合間から空を見上げると、上空をやたらにヘリコプターが轟音を響かせて飛んでいる。
 何が起こったのだろうかといぶかりながら、徳沢に設置したテントを撤収して上高地まで下った。

 上高地の小梨平に着いても、上空にはヘリコプターが何機も旋回している。
 その音は山の静寂を打ち破る騒がしさである。

 「何があったのか。」
と聞くと、
 「はっきりと分からないが、西穂高岳の方で遭難者が出たようだ。」
と教えてくれた。

 東京に戻り新聞を見て知った。
 それが松本深志高校生の西穂高岳独標の遭難事故であった。
 私が、槍ヶ岳から徳沢に雨と落雷の中を駆け下っている時に、若い前途ある有能な松本深志高校生は落雷によって亡くなったのだ。
 松本深志高校は、教育県の長野県の中にあっても、その中でもっとも俊逸な高校生の集まる名門高であった。著名な人々を多く輩出している高校である。

 穂高岳を私は愛す。
 初めて上高地に来たのは高校1年生の時であったか。
 まだ大正池の中に枯木が多く立林している異様な状景の時であった。
 今は許されていないが、大正池河畔でのキャンプであった。
 その後、大学生、社会人になって、春夏秋と何回上高地を訪れ、又穂高岳への登山で通過したことか。

 若い頃、北穂高岳も奥穂高岳も登った。
 奥穂高岳から西穂高岳へ屹っ立った細い岩壁の尾根が続く。
 その岩稜の尾根の中で、奥穂高岳頂上から見るジャンダルムの人を寄せ付けないそそり立つ岩壁の物言わぬ不気味さに、私は奥穂高岳から西穂高岳への縦走は、身の危険を感じてあきらめた。
 岩壁登りの技術を持たない私には無理な登攀ルートである。

 五千尺ホテル側より河童橋を渡って、梓川の右岸を少し上流に行くと、梓川が「く」の字のごとく左曲する場所がある。
 その川岸の土手に座って、穂高岳連峰を眺める景色が私のもっとも好きな上高地の景色である。

 そこからは穂高岳連峰の最高峰の奥穂高岳の姿が見える。
 かって自分があの頂上に立っていたのかと想いを巡らし、魔法瓶に入れてきた暖かいコーヒーをコップに注ぎ、コップが冷えないように手でつつんでコーヒーを飲みながら、奥穂高岳の姿を見るのは、上高地での至福のひとときである。

 至福のひとときであるが、しかし、松本深志高校生の西穂高岳独標の遭難を思うと、その時、自分も北アルプスの雷の音のすさまじさと怖さを身をもって味わい、雷鳴の轟音におびえ、雨の中を槍ヶ岳から徳沢に急ぎ走り下っている自分の姿が同時に思い出され、より一層松本深志高校生の西穂高岳独標の遭難に胸が痛む。
 

 グーグル画像に、槍沢の写真がありましたので、私が命カラガラ雷鳴の轟音におびえて、猛烈に駆け下った槍沢とはどういう所かの写真のアドレスを下記に記します。画像の写真は秋です。夏では雪渓が見られます。画像の中央のとんがった山が槍ヶ岳、その下のカールになったところが槍沢です。ここに降り積もった雪が溶けた水が梓川の源流になります。槍沢画像に見える細い曲折する登山道を、私は猛烈な勢いで走り下ったことになる。2015年6月19日
      http://www.geocities.jp/yamaaruki108/sub2/minami08/672.JPG



<追記> 2012年8月20日 槍ヶ岳で落雷一人死亡  鑑定コラム941)より

 2012年(平成24年)8月18日の午後1時ころ、槍ヶ岳頂上付近で落雷により一人が死んだとテレビ、新聞は報じる。

 最近の日本の天候は、不順で大雨が日本列島を襲う。
 槍ヶ岳も18日の正午前から天候が大きく変わり、突然雷が鳴り雨になったという。

 槍ヶ岳の高さは3,180mである。
 上、横にさえぎるものは何も無い。
 天空にやりの穂先のごとくそびえる山である。

 ここで雷に遭ったら命の保証は無い。
 雷が遠くで聞こえてきたら、「逃げろ」しかない。

 山頂にいたら、即降りる。
 山頂に登りかけていたら、「山頂に立ちたい」という気持ちなど心に押し込んで、山小屋に引き返す。

 命あっての山登りである。

 私も、若い頃槍ヶ岳で雷にあっている。
 山頂に立って、360度の青空の天空の景色を楽しんでいた。

 山小屋に帰り、1万尺のお花畑でのんびりと昼寝をしてからテントの張ってある徳沢に下山しょうと思っていたが、山小屋の主人が、昼頃に天候が悪くなると教えてくれ、急遽荷物をまとめて、槍沢を駆け下りた。

 それまで青空が見えていたのが、一気に雲におおわれ、遠くで聞こえていた雷の音が、近くに聞こえてきた。
 頭の上もごく近くで聞く雷の音は飛び上がる程怖い。

 半端な音ではない。
 ロックバンドの公演で聞く、スピーカーから流れるロックのサウンドの大音量など、雷と比較すれば可愛い音量である。

 私は恐怖に襲われ、槍ヶ岳の槍沢を猛烈な勢いで駆け下りた。

 槍ヶ岳の頂上付近で落雷により死亡した人は、関西電力の子会社である関電不動産のトップの社長と聞く。67歳と聞く。
 不動産に携わっている人と聞けば、尚さら惜しまれる。
 ご冥福を祈る。

         (鑑定コラム941より転載)



****追記 2015年10月27日 上高地帝国ホテル  鑑定コラム564)より

 夏真っ盛りである。
 若い頃、穂高岳や槍ヶ岳に登るために上高地を通過する時、から松林の上に見える赤い屋根の夏の間だけ営業する帝国ホテルが、松本電鉄のバスの窓からよく目についた。

 そのホテルは立地といい、品位といい日本の最高の山岳リゾートホテルである。

 テントとシュラフのねぐらでなく、いつの日か一度は、上高地帝国ホテルに泊まってみたいと思った。

 憧れであった。その憧れは未だ実現出来ていない。価格が高すぎて、とても手が届かない。

 上高地帝国ホテルのホームページに紹介されている奥穂高岳をバックにした赤い屋根の上高地帝国ホテルの建物は、下記のアドレスをクリックすれば見られます。 当初建物設計は高橋貞太郎氏で、1977年に、開業当初の高橋貞太郎氏設計の外観を忠実に再現しながら、建て直しされたと聞く。
 
      http://www.imperialhotel.co.jp/j/kamikochi/index.html

         (鑑定コラム564より抜粋転載)



****追記 2015年10月27日 上高地の観光客が減っている  鑑定コラム1406)より

 上高地は、日本アルプス最高の秀逸の山岳風景の他に、春は新緑、夏は避暑、秋は紅葉と、季節ごとの自然の移り変わりを楽しむことが出来、毎年200万人の観光客が訪れると思っていた。

 200万人の観光客は20年前の事で、現在は観光客はどんどん減っていると云う。

 そんな事は無いだろうと思ったが、事実減っているようである。

 ピークの1995年は、206.2万人であった。

 2014年は、127.8万人である。

          127.8
                ────── = 0.62                               
                    206.2

 ▲38%の減少である。

 大変な観光客の減少である。

 具体的に数値を示す。1997年までは、旧安曇村(現在は松本市に合併)の資料、1998年以降は、長野県が発表している『平成26年観光地利用者統計調査結果』による。

    1987年(昭和62年)     1,407千人
    1989年(平成元年)     1,621千人
    1991年(平成3年)      1,797千人
    1993年(平成5年)      1,774千人
    1995年(平成7年)      2,062千人
    1997年(平成9年)      1,958千人
    1998年(平成10年)      1,909,100人
    1999年(平成11年)      1,784,900人
    2000年(平成12年)      1,988,700人
    2001年(平成13年)      1,931,100人
    2002年(平成14年)      1,904,300人
    2003年(平成15年)      1,924,800人
    2004年(平成16年)      1,546,300人
    2005年(平成17年)      1,448,300人
    2006年(平成18年)      1,542,900人
    2007年(平成19年)      1,549,700人
    2008年(平成20年)      1,547,100人
    2009年(平成21年)      1,307,300人
    2010年(平成22年)      1,423,500人
    2011年(平成23年)      1,300,900人
    2012年(平成24年)      1,373,800人
    2013年(平成25年)      1,384,500人
    2014年(平成26年)      1,278,800人

 2004年(平成16年)に、前年度が192万人であるのに154万人と大巾減少したのは、上高地への観光バス乗り入れ規制されたことによるものと思われる。マイカーは通年乗り入れ禁止である。

 2009年(平成21年)に、前年度が154万人であるのに130万人と減少したのは、リーマン・ブラザーズの倒産による影響と思われる。

 昨年(2014年)は、前年が138万人であるのに127万人と10万人の減少である。

 日本のあちこちの観光地には、中国人観光客があふれかえり、前年比の倍という観光地もある。ホテルの客室稼働率は、前年稼働率と較べて大巾に改善されている。

 上高地の観光客は減少している。

 上高地の自然の美しさが変わったと云うことは無い。

 それにも係わらず、上高地の観光客は減少している。

 どうしてであろうか。

         (鑑定コラム1406より抜粋転載)



****追記 2016年4月26日 2016年上高地の穂高岳が見えた  鑑定コラム1479)より

 2016年上高地に春が訪れた。

 長い冬から上高地のホテルも開店した。

 上高地五千尺ホテルのライブカメラが、上高地の雪を冠する穂高岳の姿を映し出す。

 穂高岳の上は青空だ。本日は快晴だ。

 さあ、元気を出して動きだそう。

 上高地五千尺ホテルのライブカメラのアドレスは、下記です。
 クリックすると、今の河童橋からの穂高岳が見られます。画面を少し下に移動する必要があります。

     http://www.gosenjaku.co.jp/livecam/



  鑑定コラム566)「鑑定コラム350「上高地」のアクセスが何故か多い」

  鑑定コラム941)「槍ヶ岳で落雷死亡」

  鑑定コラム1406)「上高地の観光客が減っている」

  鑑定コラム564) 「2009年ホテル業界に何が起こっているのか」

  鑑定コラム1479) 「2016年上高地の穂高岳が見えた」

  鑑定コラム1628) 「2017年上高地の穂高岳が見えた」
 

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