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588)前田公18代と大学同窓会

 5年ぶりに大学の同窓会に出席した。

 2009年9月の月末、東京在住の大学同窓会が開かれた。
 私はあまり同窓会に顔を出していないが、5年振りに顔を出した。
 同じ学部のクラスの同窓生の幾人かが出席していた。

 同窓会は大学の校歌から始まった。
 校歌など殆ど歌ったことも無く、覚えて居ない。
 ただ一個所の文言のみ、うろ覚えに覚えている。

 「・・・・・人は人をつくるため・・・・叡智の時間(とき)を磨く・・・・」
  
 室生犀星の作詞の校歌である。

 金沢からは中村信一学長ほか数名の教授が参加されていた。
 学長の話によると、大学も大変の様だ。
 2008年に大学の学部の大組織替えが行われたという。
 それまでの学部が無くなり、3学域・16学類に変更になったという。

 3学域とは、旧学部を3つの種類に大分類したもので、人間社会学域、 理工学域、医薬保健学域の3学域に分かれる。

 各学域に学類がぶら下がることになり、法学部は、人間社会学域法学類と云う名称に変更したという。

 何のことは無い。文科系、理科系という前から使っている大分類の内、理科系が理工系と医科系に分類されただけで、昔の学問の捉え方と何も変わっていない。名称が学域とか学類という曖昧模糊としたものに変更になっただけである。

 大学の東京会の会長は中川了滋氏である。
 久しぶりに顔を合わせたが、いきなり、

 「随分太ったなあ。分からなかったよ。メタボか!」

と云われ、出っ張った前腹をポンと叩かれた。

 やはり云われたかと苦笑いした。
 しばし歓談した。

 中川氏も今年2009年12月で、最高裁判所を定年らしい。

 「じゃあ、最高裁を辞められたら、また気楽に酒が飲めますね?」

と問うたら、

 「そうなるね。」

の返答だった。

 来賓の方の中に、驚くべき人が来ておられた。
 大学同窓会の来賓として出席されるのは初めてらしい。

 幹事はおそるおそるご出席のお伺いをたてたところ、こころよく出席を快諾されたと裏話を話す。

 司会者は紹介する。

 「本日は来賓として、特別な方に来て頂いております。
 前田家18代当主の前田利祐様です。
 前田様、ご挨拶をお願い致します。」

 加賀100万石の藩主、前田家の18代当主である。

 18代当主の挨拶を聞き、姿を見ながら、

 「この人が、前田利家の血を引く人か。
 前田利家の面影がどこに残っているだろうか。
 どこかに必ず残っているはずだ。
 それは眉毛か、目か、顎か、耳か。
 どこだろう。」
と想像を巡らした。

 そして、当人の17代前の隣には、仲の良かった木下藤吉郎が立っていたのかと古の過去への想いが駆け巡った。

 我が母校は金沢城の中にあった。 前田公を追い出し大学が占拠したごとくである。

 そもそも、大学の発祥は、文久2年(1862年)に加賀藩が作った種痘所が始まりであるという。

 前田家が、大学を創ってくれたというようなものである。
 大学の同窓会には、今後毎年ご招待したら良いであろう。

 同窓会の最後は、2つの歌で終わった。
 旧制第四高等学校の応援歌の「南下軍」と同校寮歌「北の都」である。
 旧制四高のOBも何人か出席されていた。旧制第四高等学校の最後の卒業生も、今や齢80歳になられておられる。2つの歌を歌う時は、大事に保管されている旧制四高時代から受け継がれている、一つの星から四つの光が発している校章が描かれている四高の大旗を壇上で元気に振られる。面目躍如である。


 鑑定コラム652)「四漕艇部琵琶湖遭難昭和16年4月6日」

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