2011年4月6日に、旧制第四高等学校と新制金沢大学卒業生の会である「北の都会」の月例会(第697回)が、東京銀座7丁目にある「ライオン銀座7丁目店」6階ホールで開かれた。
「北の都会」の月例会は、毎月「4」の日に開かれる事になっているが、4月に限り4月6日にある追悼会を兼ねて開かれるようである。
今から70年前の昭和16年4月6日、四漕艇部が琵琶湖で練習中、比良おろしにあってボートが転覆し乗っていた四生及び卒業生11名全員がなくなった。
四漕艇部琵琶湖遭難事件である。
昨年は大々的に追悼会が行われたが、今年は厳かに簡素に追悼が行われた。
追悼には、四を卒業して京都帝国大学の医学部に合格し大学の入学式の前に、漕艇部OBとして乗船していた兄を失った遺族である妹さんも参加されていた。
追悼の辞は、昭和16年4月に四に入学されたOBが、その時の四生の状況を話された。
その話によれば、四に4月に入学したが勉強どころでは無かったという。
教授達は殆どが琵琶湖に行ってしまい、授業は全く開かれなかった。
学生寮では、四の今後について連日熱っぽく語り合わされた。
四を潰すな、漕艇部を廃部にするなという会合が何回ももたれ、新入生に対して漕艇部への入部の勧誘が激しく行われた。
その頃の四漕艇部は大変強く、対抗戦では強豪校であったようである。
話をされたOBの友達の幾人かは、漕艇部に入部したという。
これらの話は、私にとっては、初めて聞く話ばかりである。
そして私が初めて聞く話はまだまだ続く。
遭難した学生の遺体がなかなか見つからなかった。
その話を伝え聞いた金沢の北西にある金石という漁村の漁師達が、
「俺たちが捜してやる。」
と遺体捜索に参加してくれて、遺体の全部がやっと見つけ出された。
琵琶湖の潮の流れは、表層と下層では逆流しているという。
5月に金沢の四講堂で行われた遭難者の合同慰霊祭では、2、3年生達は号泣し、式にならなかった位であったと、昭和16年4月に入った新入生のOBは、当時を想い出して話す。
鑑定コラム652)「四漕艇部琵琶湖遭難昭和16年4月6日」の記事の中の
写真1-19
で、頭を垂れている学生は号泣している後ろ姿ということの様だ。
今回追悼の辞を話された人も、この写真の中に写っている一人では無かろうかと推測する。
鑑定コラム652)「四漕艇部琵琶湖遭難昭和16年4月6日」
鑑定コラム881)「91歳の先輩が友を偲ぶ」
▲