○鑑定コラム
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徳川幕府が終わりに近づいてきた頃、アメリカの総領事タウンゼント・ハリスと徳川幕府14代将軍徳川家茂との間で、『日米修好通商条約』が締結(安政5年 1858年)された。
関税の自主権の放棄を代表とする日本にとっての不平等条約である。
この不平等条約をなくすために、その後40年を費やすことになる。
その日米修好通商条約の中で、貨幣の交換条文がある。
貨幣の交換は「同種同量」による交換の条文である。
これによって、ハリスは1ドル=1分銀3枚とすることを幕府に認めさせた。
ハリスの云う1分銀3枚が、1ドルに交換相当とする考えは、次のようであったのでは無いのかと私は推測する。
当時1ドルはメキシコ銀で造られており、その貨幣に含まれていた銀の量は26.73グラムである。
一方、1分銀に含まれていた銀の量は8.62グラムである。
それぞれを100倍すると、
100ドルの銀含有量は2673グラム
100分銀の銀含有量は862グラム
である。
100ドルの価値は、
2673
───── = 3.1
862
100分銀の3倍が必要ということになる。
つまり、1ドルは、1分銀3枚が妥当な交換比率ということである。
この様にハリスは考えて、1ドル=1分銀3枚と、提示・主張したのでは無かろうかと、私は推測する。
1両金貨=4分銀貨
が日本国内の貨幣交換であったから、
1ドル=3分銀=3/4両=0.75両
ということになる。
その交換レートが成立したのであるから、それで良いではないのかと人は云うかもしれない。
そう思う人は、江戸末期の日本人の考えそのものということになる。
紙幣の場合ならば、その理屈は通るであろうが、紙幣で無く、銀貨、金貨の場合には、金属としての地金の実質価値が絡んで来るのである。
「同種同量」の交換を主張したハリスの策略が、次第に分かってくる。
金貨銀貨の交換価値の比率と云うものが、日本人は分かっていなかった。
鎖国ボケと云うのか。
日本国内では、一両=4分銀で国内貨幣は流通していた。
金銀の国内交換比率は、
金1 : 銀4.6程度
であった。
欧米の金銀交換比率は、
金1 : 銀15.3程度
であった。
このことからどういうことになるかと云えば、1ドル銀貨で1分銀3枚を得、それに1分銀を加えて1両金貨を得ることが出来る。
その獲得した1両金貨を、上海などの海外に持って行けば、3.3倍(15.30÷4.6=3.3)の銀が取得出来るということになる。
見事な錬金術である。
江戸幕府は、ハリスに見事にしてやられた。
ハリスは、アメリカの利益の為に、条約を結んだと云うことになろう。
日本の小判金貨が瞬く間に、海外に流出してしまった。
日本は大損をしたということである。
江戸幕府が、日米修好通商条約の締結を渋っていると、ハリスは、当時英国による中国侵略のアヘン戦争を例に出して、
「英仏は、日本国を侵略しようとしている。アメリカと条約を結べば、それを防ぐことが出来る。」
と脅しをかけたようだ。
江戸幕府、日本人は、これまたコロリと、これに引っかかってしまった。
時の江戸幕府の大老は、堀田正睦の後を継いで権力を握った井伊直弼であった。
井伊大老は、日米修好通商条約の締結には天皇の勅許が必要であると考えており、勅許の無い条約締結には消極的であったが、交渉の全権委任を受けた幕臣の高級官僚が、全権委任を理由にして、天皇の勅許なしでハリスと条約を結んでしまったと聞く。
彦根藩主の井伊大老の桜田門外の変は、将軍継承問題で水戸藩との確執があったが、「1ドルは0.75両」という条約が、深奥の原因ではなかろうかと私は思う。
シェル石油の創始者であるマーカス・サミュエルが、極東の日本に明治4年に来たのは、何の情報を得て来たのか私は知らないが、小判金貨が安く手に入る噂が、動機の一つでは無かったろうかという推測もできる。
鑑定コラム768)「2011年大学新年度最初の講義とシェル石油創始者」
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