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1353)三十間長屋

 長屋と云うと、一棟の細長い建物が幾つかの区画割りされた住宅を思い浮かべるであろうが、今日述べる長屋はその様なものでない。

 金沢城内に残る江戸時代に造られた加賀藩の武器庫として使われて来た建物である。三十間長屋と呼ばれる建物である。

 大学の同窓会が金沢で開かれ、大学卒業後、50年振りにかっての若き学友にあった。

 私が大学生の頃は、大学が金沢城全体を使っていた。

 今は角間という金沢の東のはずれ遠く山の中に移転している。

 金沢に行った時、いつかは城の中に入り、三十間長屋の現在を知りたかった。

 建物に会いたかった。

 三十間長屋は、私の大学生の時は、図書館の書庫として使われていた建物だった。

 今回は時間があり、金沢に泊まった翌日、50年振りで金沢場内に入った。

 大学時代の学舎建物は、場内には全く残っていない。

 場外には、当時石川県庁であった建物の隣に、現在旧制四の赤煉瓦建物が一部残っている。

 その赤煉瓦の階段教室で、1年生の時、教養の授業として、数学を学んだ。

 その数学の講義は行列式、逆行列であった。
 大学の授業はなんと難しいのだと感じたことを、未だ昨日のごとく思い出す。

 その教授は未だ健在である。
 北の都会に顔を時々出される。
 齢100才である。

 大学1年生の教養関係の講義であった独語、英語、数学、哲学、歴史等の教官は、ほとんどが、旧制四の教授達であった。

 哲学の授業は、さっぱり分からなかったが、西田哲学の西田幾多郎が、旧制四の教授であったことから、その流れが受け継がれレベルは高かった。
 大学の哲学科には、西田哲学に憧れて入学していた学生が多かったと、当時聞いたことがある。

 私が向かったのは、お城の建物として場内に残っている三十間長屋であった。

 建物は残っていた。

 その建物の前に、以前は図書館があった。今は無い。
 当時図書館の建物と三十間長屋とは、長屋の出入り口で繋がっていた。

 三十間長屋は書庫として使用されており、私は図書館の建物から書庫に入り、本を探した。書棚から蔵書を取り出して読んでいた。

 ある時、蔵書の奥付を見て驚いた。

 「第四等学校図書館蔵書」のゴム印が押されている書物に出会った。

 奥付を見てみると、大学図書館の蔵書の中に、第四等学校図書館の蔵書の書物は、結構あった。

 それらの本を手にすると、旧制四の先輩達もこの本を読んでいたのかという親近感が湧いてきた。
 
 そうした経験があるため、今回どうしてもその三十間長屋に会って見たかった。

 下記に、私が50年振りに会った三十間長屋の現在の姿の写真を載せる。


30間長屋1



30間長屋2



 写真の三十間長屋の1階扉のあるところが、廊下建物となって図書館と繋がっていた。
 そこより書庫である三十間長屋に入って、私は本を探していた。

 手前の広場に図書館の建物が、建っていた。


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