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1338)兼六園の桜は満開だった

 平成27年4月12日の日曜日、大学の同窓会に出席するために金沢に行って来た。

 金沢に行くまでの交通手段は、国分寺駅よりJR中央線に乗り、新宿駅で山手線に乗り換え、品川に行く。

 品川駅で京浜急行線に乗り換え羽田空港に行く。
 羽田から飛行機で小松空港に行く。

 小松空港からJR小松駅に行き、北陸本線に乗って金沢駅に行くと云うスケジュールであった。

 国分寺駅から新宿駅まではスケジュール通りであったが、新宿駅でスケジュールが狂ってしまった。

 山手線が動いていなかった。

 神田駅と秋葉原駅間で、電車に電力を送る架線を支える電化柱が、山手線の線路に倒れかかり、電車の通行が不能になってしまったのである。

 山手線と平行して走る京浜東北線も、倒れた山手線の電化柱を治す工事のために電車を走らすことは危険なため出来なく、京浜東北線も全線ストップになってしまった。

 新宿駅の山手線のプラットホームに行って、山手線が止まっていると知った。

 その時には、京浜東北線もストップしているとは知らなかったため、山手線のプラットホームから、再度中央線のプラットホームに戻り、中央線に乗り直し東京駅に行き、東京駅で京浜東北線に乗り換えて、品川駅に行こうとした。

 しかし東京駅に来て、京浜東北線もストップしていると知り、途方にくれた。

 品川にはどうして行けばよいのか。
 飛行機の時間は決まっている。
 悠長にしている訳にはいかない。

 最悪の場合は、東海道新幹線に飛び乗り、東京駅の次の停車駅である品川駅に行こうと思いながら、時間的に間に合うか分からないが、東海道線は動いているであろうと判断し、東海道線のホームに立った。

 東海道線は動いており、小田原行きの列車の発車時刻が、プラットホーム上の予定板に電子掲示されていた。
 時間は未だあった。

 それまで待とうと、東海道線のホームに立っていると、列車が入って来た。
 「品川」行きの列車である。

 はて、東海道線の列車に、東京駅を通って品川行きの列車などあったのか。

 訝ったが、品川駅に行けるのであればと思い、その列車に乗った。

 途中停車駅は、「新橋」駅のみであった。

 おかしな東海道線の列車であると思ったが、車内アナウンスで、今年3月より運行が開始された「上野東京ライン」という列車と知った。

 上野駅止まりであった常磐線が、品川駅まで運行し、混雑していた山手線西日暮里ー東京間の混雑を避けるために開通した運行ラインと分かった。

 品川駅で京浜急行線に乗り換え、予定より相当遅れて何とか羽田空港に着いたが、時間の余裕を持って自宅を早く出ていたことが幸いし、小松空港行きのフライトには、どうにか間に合った。

 後で知ったが、山手線の電化柱倒壊によって、約40万人の人々が影響を受けたと新聞は報じる。

 そして、平日であればその数ではとても収まらず、大混乱に陥ったであろう。平日で無くて良かったと新聞はコメントする。

 しかし、私の旅の交通の混乱は、東京だけでは無かった。

 小松空港に到着して、金沢に行く時にも、つきまとった。

 小松空港に着き、JR小松駅に向かった。

 小松駅でJR北陸本線に乗って、金沢駅に向かおうとして、小松駅の改札口に行ったところ、北陸本線の金沢方面の列車は、運行停止という。

 福井駅〜森田駅間で発生した人身事故によって、北陸本線はストップしているという。

 いつ運行されるか分からないという。

 駅員に、

 「小松駅から金沢駅に行くバスはないか。」

と聞くと、

 「昔はあったが、今はない。」

という。

 ではどうしたらよいのかと問えば、小松空港から金沢駅行きのリムジンバスがあると教えてくれた。

 仕方がない。

 小松駅からタクシーに乗り、再び小松空港に戻った。

 リムジンバスは、到着航空便に合わせて運行発車しているから、次の飛行機が小松空港に到着するまで待って、金沢行きのリムジンバスに乗った。

 さんざんな交通事情を味わって、ようやく金沢に到着した。

 ホテルにチェックインし、今夜宿泊する客室に荷物を置いた。

 同窓会は、加賀八家の一つ奥村宗家1.7万石の邸宅(現在は国立金沢医療センターの敷地)の北側、兼六園の東側にある「兼見御亭」という料亭で開かれる。

 奥村宗家敷地を囲む長土塀は、加賀藩為政者の一人の邸宅の土塀であり、長町の中級武士の居宅の土塀とは格が違う。金沢に行った時は、長町の武家屋敷の土塀だけでなく、奥村宗家の長土塀も見ることを勧める。時の権力者の凄さを知らされ、一見の価値がある。

 ここで少し加賀八家について概略述べる。

 加賀八家とは、加賀藩初代藩主前田利家及びその後の前田家を支えた重臣の八家を云う。

 筆頭は石高5万石の本多家である。
 徳川家康の側近中の側近で、家康の参謀と云われた本多正信の次男・政重が、上杉の米沢藩に居たが、加賀藩が反旗を翻さないようにと、監視役として徳川幕府直参旗本の筆頭格の本多家から加賀藩に送り込まれた。

 いや、前田家には徳川幕府に対して謀反を起こす気など全く無いという証しを示すために、策士本多正信の懐に逆に飛び込み、前田家の方から本多正信に対して、正信の息子を加賀藩に欲しいと頼み、金沢に迎え入れたというのが本音かもしれない。5万石という破格の禄高を提示して。

 だがそこのところは、私にははっきりと分からない。

 現在の金沢の本多町の町名が付いているところは、かっての筆頭家老本多邸のあったところ或いはそれから付けられている。

 次は能登の在郷勢力であった長家である。利家が能登を征服して仕える。能登穴水城主で3.3万石。

 3番目は、横山家3万石である。富山城主である。利家の尾張荒子以来の家臣である。

 4番目は、前田別家1.8万石。尾張荒子前田家の同族。越中守山城主。

 5番目は、奥村宗家1.7万石。尾張荒子前田家の重臣。

 6番目は、村井家1.65万石。尾張荒子前田家の重臣。

 7番目は、奥村分家1.2万石。留守居役。奥村宗家当初の次男の家系。

 8番目は、前田利家の次男の前田分家。小松城主。1.1万石。

 人気漫画『花の慶次』の主人公であり、現在放映されているNHKテレビの木曜時代劇ドラマ『かぶき者慶次』で描かれる前田慶次郎は、前田利家の長兄である利久の養子であり、利家は義理の叔父になる。

 前田利家についての記事は、ここまで。

 「兼見御亭」での同窓会の開宴は、夜の6時からであり、それまで兼六園を見ておこうと思った。

 ホテル前に泊まっていたタクシーに乗り、兼六園に向かった。

 道中、タクシーの運転手と話した。

 北陸新幹線の金沢開通に伴って、景気はどうかと聞けば、開通以前と以後では、タクシー乗車の人が2〜2.5倍増えたと云う。外人客が増えたとも云う。

 景気はよさそうである。

 全国あちこちの仕事で、タクシーに乗った時に、景気の状況を運転手に聞くが、今迄景気が良いと云う運転手は、一人もいなかった。

 タクシー業界は、全国万年不景気産業なのかと思っていたが、金沢で初めて景気が良いという言葉を聞くことが出来た。

 兼六園は、人、人、人で一杯であった。

 丁度、桜の満開にぶっかることが出来た。
 兼六園の桜祭りで、本日まで入園の入場料は無料であったこともあるかもしれないが、人があふれると云う表現がぴったりするほど多かった。

 ここでも団体の人による中国語、韓国語が飛び交っていた。

 庭園の南側のカキツバタの生える曲水沿に、満開の桜が続いていた。
 曲水沿にこんなに多くの桜があったのかと、昔を思い出しながら、驚いた。

 見事な満開の桜景色であった。

 夕方6時に近くなったので、桜見物を終え、兼六園の東側にある同窓会の宴会場の料亭に向かった。

 大学卒業後50年振りの同窓会の出席であった。

 卒業後全く会っていない50年振りに会う同窓生は、互いが誰であるかさっぱり分からなかった。

 自己紹介して、やっと互いに思い出すという状態であった。

 同窓会参加者のほとんどは、会社勤務を退き、年金暮らしであった。

 ゴルフ、つり、バードウォッチ等の趣味に生きる人、時間をもてあましている人それぞれであった。

 一人ユニークなことをしている同窓生がいた。

 外国人をホームステイさせていると云う。

 本人曰く、自分が英語を学んで外国に行くよりか、外国人を自宅に逗留させて、外国語を学ぶ方が手っ取り早いという発想から、ホームステイを始めたと言う。

 今では、全世界に知人が出来たという。

 その話を聞いて、私は、すっかり忘れていた昔の自分を思い出した。

 私も若い頃、日本に留学してくるアジア等の外国の学生をホームステイさせてみようかと思ったことがある。

 ホームステイさせていた人が、本国に帰り、母国の中枢の人になった時には、訪れて、それぞれの国の旅をしてみようかと考えたことを思い出した。

 しかし、狭い東京の住宅では、その様な余裕は無く、あきらめたことを。


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