776)東京ドームの大スクリーンに「長野県清内路小学校」の文字
2011年6月上旬の夜、東京ドームにプロ野球のセ・パ交流戦を観に行った。
巨人と日本ハムの試合であった。
年に1、2回東京ドームにプロ野球を観に行く。
今回はセリーグ・パリーグの交流戦であり、日本ハムの中田翔が成長して打順4番に座っているということもあり、4番打者までに成長した中田を一目観たいと思い、巨人対日ハム戦を東京ドームに観に行った。
投手は、巨人は沢村、日ハムはウルフであった。
毎回プロ野球を見に行く度に思うが、外野席の笛や太鼓ののべつまくなしの応援は止めてくれないものか。
私は静かにベースボールを観たい。
日ハムの中田は打順4番に座っていた。即ち4番打者であった。
しかし、いいところ無く、ノーヒットに終わった。
打撃フォームの異常さが目についた。
中田は右打ちである。
両足の巾を大きくとり、体重を右足に最初かけている。
ボールをバットが捉えようとする時に、左足に体重移動するが、左足を挙げずに地面に付けたままスイングする。
通常の人は左足を少し挙げ、バットを振り下ろすタイミングをその時とる。
中田は左足を挙げない。地面に付けたままである。
そうした打ち方で、腰の回転がうまく出来るのであろうかと思ったが、それがプロ野球選手として日本ハムの新4番打者であるから、中田にとってはその打撃フォームが最適であると言うことであろう。
大リーグのカージナルスのプホールズに似ている打撃フォームである。
プホールズのごとく大成してくれればと願う。
巨人の1番打者の坂本は、フルベースで打席に2度立ったが、いずれも凡退に終わった。
スターになる素質はあるが、王、長島と較べると、体、技術、精神力いずれも劣り、ひ弱い。今後意識して、それらを相当鍛え無ければ、巨人軍の4番にはなれない。
試合途中に、外野席の大スクリーンに、
「本日のご来場長野県清内路小学校」
の文字が大写しされた。
長野県清内路小学校とは、長野県清内路にある小学校である。
長野県清内路とは、伊那地方の飯田から木曽山脈(中央アルプス)を越えて木曽の蘭(あららぎ)を通って三留野(みどの)に抜ける「清内路峠」のあるところだ。
私が若い頃、東京から実家に帰る時、自動車で清内路峠を越えて実家に度々帰った。また実家から東京の自宅に戻る時も、車で度々清内路峠を越えた。
道は砂利道で狭く曲折が多かった。車を運転する私も、また同乗者も車酔いするほどの道であった。
標高1000mを越える峠の近くに湧き清水があった。
峠越えする時は、必ず車を止め、その湧き清水を飲んだ。飲むと車酔いが収まると錯覚するごとく、冷たく美味しかったことを想い出す。
清内路の名前は、当鑑定コラムに一度書いた。
新田次郎の『武田勝頼』に出て来る記述を紹介した。
織田信長は木曽攻めで馬籠峠まで行ったが、木曽勢の軍略をアドバイスする武田軍の真田昌幸の計略に引っかかり敗走することになるが、物見が信長に周辺の敵方の動きを報告する個所で「清内路」の言葉が出て来る。
その部分を再記すると次のごとくである。
『「馬籠峠を守る木曽軍はおよそ百名あまり」
「木曽川沿いの間道には、ほとんど敵影なし」
「妻籠には木曽の影は見えませぬ。妻籠から伊奈の駒場に通ずる清内路方面には敵の動きがございませぬ」
とつぎつぎと物見の報告が入ってきた。』(新田次郎『武田勝頼』P99 鑑定コラム520)「岩村にて」)
清内路小学校の6年生が修学旅行で東京に出て来て、東京ドームでの野球観戦に来たのだと思う。
初めて観るプロ野球場のまばゆいばかりの照明に映える緑のグランドの美しさに、心奪われたものと思う。
一生忘れられない思い出として心に残るであろう。
下記に、その日の東京ドームの内の様子の写真を載せる。クリックすると大きくなります。
打者は坂本である。
鑑定コラム520)「岩村にて」
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