2006年4月から桐蔭横浜大学法学部の客員教授として、同大学の法学部に新しくできた、準司法コースの「不動産鑑定士」コースで、不動産鑑定士を志す学生に対して不動産鑑定評価論と評価実務の講義を行うことになった。
学生に講義するために、「不動産鑑定評価基準」、その解説書、門脇淳の著書等を改めて読み直してみた。
読んでいて違和感を感じた。
それは、鑑定基準では、「不動産の価格の特徴」として4つを挙げる。
その中には、不動産の価格は常に変動の過程にあることを云う、
「今日の価格は、昨日の展開であり、明日を反映するものである」
という名文句のものもある。
それはあたかも、鴨長明の『方丈記』の有名な次の書き出しを思い出させる。
そこには、今から800年前、西暦1200年初めの頃の鎌倉時代の京の都の不動産が、卓抜な観察眼で、読む人の目の前に浮かび上がるごとく巧みな文章で述べられている。人生の流転を不動産とだぶらせて見ている。
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。」
鑑定基準の云う不動産の価格の4つの特徴のうちの一つとして、
「不動産の価格(又は賃料)は、その不動産に関する所有権、賃借権等の権利の対価又は経済的利益の対価であり」という。
この文章は、旧大蔵省の局長から財団法人日本不動産研究所の理事長になられ、(社)日本不動産鑑定協会の初代会長になられた櫛田光男先生が、「不動産の鑑定評価に関する基本的考察」として書かれたものが、鑑定基準にそのまま使用されているものである。その論文は、不動産鑑定評価の世界では金科玉条のごとくの論文である。
上記のこの一文を読んで、私は甚だしく違和感を持った。
不動産と所有権と価格の関係が、それぞれがバラバラに存在しているごとく私には受け取られる。
それは、私の「不動産と所有権と価格の関係」の理解とやや異にする。
不動産というのは、民法86条1項で次のごとく法律定義する。(一応法学部の客員教授の講義であるから、根拠となる法律条文を示して説明しないと法学部の講義として様にならないと思われ、六法を引っ張り出すのである。いささか滑稽に見えるかもしれないが。)
「土地及び其定着物は之を不動産とす」
定着物とは何かということになるが、講義では長々と説明したが、そのことの説明は省略して、民法では不動産を上記のごとく定義する。
「不動産」と通常云うのは、それは不動産の所有権のことを言うのである。
「所有権」という権利の表示が、当たり前と認識されているために省略されて「不動産」と云っているのに過ぎない。
所有権といちいち云わなくて、「物」には所有権が付着していることが当たり前で、当たり前過ぎるから省略しているのである。
それ故、「不動産」ということは、「不動産の所有権」を指すことである。
そして所有権という権利には、必ず価格というものが付いている。
貨幣の表と裏に例えれば、所有権の権利が表で、所有権の価格が裏である。
表の所有権は、所有権者が変更しない限り10年でも50年でも変化は無く、「静的」なものである。
一方、裏の価格というものは、経済事情、社会事情に伴い、常に変動の過程にあり、「動的」なものである。
この動的な価格の適正なあるべき位置を分析し、評価して、金額表示するのが不動産鑑定評価である。
表の権利の紛争は弁護士・裁判官の扱う分野であるが、弁護士・裁判官は権利の裏に密着していて変動する所有権価格についてはさっぱり分からない。
不動産の紛争はたやすく解決しない。価格が絡んでいるから当然である。
紛争解決のためには、権利の裏に密着する価格の判断について、不動産鑑定士に頼らざるを得ない。それが不動産鑑定士の存在価値であり、職業であると学生に私は説く。
鑑定基準が不動産の価格の特徴として、所有権の対価であると云うが、それは特徴でもなんでも無いであろう。
所有権の権利に価格は必ず付着しているものであり、それは不動産のみに限るものでは無い。
動産でも何でも「物」と呼ばれるものは、そのものの所有権を指し、その権利には所有権の価格がくっついている。
その様に考えれば、鑑定基準が「不動産の価格の特徴」として「所有権の権利の対価」であるということを、ことさら「特徴」として取り上げることが、私には違和感と感じられたのである。
新米客員教授として、私の桐蔭横浜大学での最初の講義の「不動産鑑定評価とは」の講義は、この様にして始まった。
鑑定コラム497)「『方丈記』と不動産」
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