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434)山桜は美しかった

 藤沢周平原作の封切りされた映画『山桜』を観た。
 2008年5月31日に、東京は3個所の映画館で『山桜』が封切り上映された。

 東京テアトルが経営する映画館での上映のようで、立川高島屋の「立川シネマシティ」シネマコンプレックス、新宿高島屋の「テアトルタイムズスクエア」シネマコンプレックス、そして大泉学園の「T・ジョイ大泉」シネマコンプレックスの3館である。

 立川の映画館は満員の入りであった。

 山形鶴岡の庄内映画村での最後のロケを観てから、1年経っての上映である。
 映画は撮影終了から、封切り上映するまで随分と時間がかかる様だ。

 スクリーンに映る茅葺きの家とロケに来ていた主人公役の野江を演じる田中麗奈を、なつかしい思いを持って観た。

 鳥海山に残った雪が溶け、小川にせせらぎを作り、木々は芽吹く。そして山桜が満開に咲く。

 結婚せずに亡くなった叔母の墓参りを終えた一人の女性は、一本の美しい花の咲く山桜に見とれる。
 一枝とろうとするが、枝は高くて手が届かない。

 「手折って進ぜよう。」
という男の声が、後ろから突然した。

 振り向くと見知らぬ男が立っていた。
 その男は、かっての昔、今、桜の枝をとろうとしていた野江を見初め、妻にと縁談を申し込んだ手塚弥一郎という男であった。

 母一人息子一人の家に、娘を嫁つがせることに野江の父母は反対し、縁談を断ったいきさつがある。

 「今は幸せでござろうな。」
と男は野江に問う。

 一度目の結婚は夫が亡くなり、二度目の現在の嫁ぎ先は、勘定高い武家の家庭でなじめない境遇にある野江にとって、その問いかけにどの様に返事して良いのか戸惑う。

 戸惑いながらも、そのような境遇にあることを初対面の人には言うことは出来ず、
 「・・・・・・はい。」
と複雑な気持ちで答えた。

 「さようか。案じておったが、それは何より。」
と声を掛けた手塚弥一郎は、ほほえみを残して去っていった。

 野江は、初めてあった人が発した「案じておった」という言葉が気にかかり、母親、弟に手塚弥一郎の事を聞く。そして弥一郎は未だ結婚せず、一人でいることを知る。

 藩財政の立て直しを理由に田の開墾を行い租税収入の増大を図ろうと、譜代の重臣の一人である諏訪が主張した。家老等もその考えには異をとなえることは出来なかった。

 しかし重臣の諏訪は、表向きの理由とは裏腹に、開墾することによって利益を得る豪農と手を結び、私腹を肥やすことに精を出す。

 折からの3年続きの不況にも係わらず、開墾費用の捻出として貧農の人々から容赦無く年貢を取り立てる。年貢を払えない農家には農地の取り上げの政策を行う。

 春、郡奉行の職にある弥一郎は、村を検分中、冷害で満足に食をとれない少女に、自分のおにぎりを分け与える。

 秋、田の作柄の見回りに来た時、弥一郎は真新しい墓を目にする。
 それは、春におにぎりを与えた少女の真新しい墓であった。少女は年貢でお米を取り上げられて食べ物が無く、衰弱して死んだのである。

 この墓を見て、弥一郎の心の底に、開墾を理由にした悪政を行う重臣諏訪への義憤が密かに芽生える。

 そして、ある日城下で、権勢をほしいままに振る舞う重臣諏訪を斬り殺す。

 この弥一郎の見事な殺陣さばきは、様になっている。
 殺陣も所詮チャンバラと云えばそれまでであるが、太刀さばきと動きは絵になるごとく美しい。

 弥一郎演ずる東山紀之の殺陣は見事だ。カメラワークも良い。

 藤沢周平の作品の中には、必ずでてくるものすごく腕の立つ剣の達人、それは宮本武蔵や柳生但馬守宗矩よりも強いのではないかと思われる剣の達人の殺陣の一場面である。それはまた必ず作品のクライマックスの場面である。

 弥一郎は、重臣諏訪を斬り殺す事を誰にも相談しない。話さない。
 一切しゃべらずに、重大な仕事をやり遂げる。
 男はべらべらしゃべらずに、言い訳など云わず、黙って仕事をせいと云う事か。
 「寡黙の美」が弥一郎に見られる。弥一郎演ずる東山紀之は、野卑でなく気品が漂うのが、また良い。

 諏訪に取り入って甘い汁を吸っていた夫が、弥一郎の行為を「切腹もの」とののしることを聞いて、野江は夫の羽織を投げ捨てる。
 これで野江は離縁されることになる。

 実家に戻ってきた娘の野江に対して、檀ふみ演じる母親は暖かく迎える。
 人生の生きる方向を無くし、落ち込み絶望的になる野江に、「回り道しただけょ」と優しく諭す。

 この言葉が、この映画の底に流れるテーマを表す言葉か。

 重臣を切った弥一郎は、牢で静に裁きを待つ。
 しかし、藩の重臣達の決断はなかなか付かない。
 春になって里帰りする藩主の判断を待とうと云う事になる。
 「義」の強さが、ここににじみ出てくる。

 藩主が国に1ヶ月後に帰ってくると聞いて、野江は弥一郎と初めて出会った山桜の樹に行く。
 野に立つ山桜は、満開の花を咲き誇っていて美しかった。

 野江は、その山桜の花の一枝を通りかかった農夫に折ってもらい、意を決して初めて弥一郎の家を訪れる。

 事件後、誰一人訪れる人のいない弥一郎の家に、弥一郎の母は誰かを待っているごとく一人いた。

 訪れた野江を見て、
 「どなた様ですか。」
と問わず、野江の持つ花を見て、
 「美しい桜の花ですこと。」
と最初の言葉を発す。

 この順序を違えた最初の言葉が、野江の心にわだかまっていた自分の今迄の人生に対するこだわりを全て溶かし、新しく生きてゆこうと希望を持たせる。

 「あなたが、唯一訪れて来てくれた人ですょ。」
と野江の手をとり、座敷に上げて暖かく弥一郎の母は迎える。

 それは、あたかも野江が訪れてくることを待っていたかのごとくの接し方である。
 野江が持ってきた桜の花を、床の間に切り花として飾る。
 それは弥一郎のお嫁様として野江を受け入れ、祝すことを暗示することであろう。

 弥一郎の母の野江に対する優しい心遣いに、今迄辛い時、悲しい時にも決して見せなかった涙が、野江の目からとめどめなく流れてくる。

 それは、この家に最初から嫁ぐべきであったという自覚と、どこの家に行っても冷たくあしらわれたが、ここに来て初めて一人の女性として処遇された事の喜びの涙であったかもしれない。
 回り道をしたが、これで女の幸せをつかむことが出来る喜びの涙であろうか。美しい涙である。

 1ヶ月後、春のどかに、殿様の国帰りの行列が望遠レンズで映し出す。
 それは弥一郎の恩赦が近い事を暗示させる。

 親の云うがままに嫁ぐしか出来なかった侍社会の古いしきたりの日本において、2度の結婚に失敗して、人生に絶望を抱いていた女性が、やっと自分の居場所をみつけ、自分の愛に従って生きようとする姿に、心が泣ける。

 主人公の野江を取り巻く3人の武家の女の演技が、いずれも素晴らしい。

 離縁されて実家に戻ってきた娘を、母親として優しく迎え、娘の心を癒す母親役の檀ふみ、2度目の嫁ぎ先の武家のしきたりと息子を守ろうとする為に、野江に厳しく当たる永島暎子、そして最後に弥一郎の母として登場する富司純子の3人が、それぞれ実母、義理の母、次の義理の母になるであろう母親の立場をものの見事に演じている。

 特に、母一人息子一人の所には嫁に行くなという、偏見した古い母親のイメージを打ち破る弥一郎の母親を演じる富司純子の、人を優しく包み込み、受け入れ、そして気品ある母親の演技は、『山桜』の映画を一層良い作品に仕立ている。
 藤沢周平が心に抱いていた母親の像は、こうしたものであったのであろうか。

 出演者、映画関係者の名前が字幕エンディングで流れるが、その映画協力者の中に、私を庄内映画村に連れて行き、『山桜』の撮影最後を見せてくれた会社の名前を見つけた。

 気候の変化で咲くのが遅れた山桜を、
 「山桜、山桜、山桜はどこにあるかと山桜を探し求めて、車を駆った。」
と笑顔で話していた案内者の社長の顔を想い出しながら、喜びを感じて劇場の席を立った。

 プロデューサー       小滝祥平 
 監督           篠原哲雄 
  脚本           飯田健三郎
              長谷川康夫
 撮影           喜久村徳章
  配給           東京テアトル


 映画 『山桜』の公式ホームページは下記です。
 http://www.yamazakura-movie.com/

 (注)ネットスケープでは7.1以上でないと見られない場合があります。


 上記記事の中の映画ロケに付いての鑑定コラムは、下記にあります。
 鑑定コラム419)「映画『山桜』の撮影ロケ」


 その他『山桜』について一言書いて有るのが、下記にあります。
 鑑定コラム481)「映画『おくりびと』」


 藤沢周平原作の映画についての鑑定コラムは、下記にあります。
 鑑定コラム455)「藤沢周平の『蝉しぐれ』」

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