火野正平のこころ旅は、年末と年始は休んだが、2013年1月7日からNHK BSプレミアムで放映が再び始まった。
2013年の最初は宮崎県より始まった。
宮崎から鹿児島そして沖縄へと、視聴者のこころに残る風景を訪ねる旅である。
火野正平は、宮崎県の都城市に自転車で向かった。
目的は、正応寺地区のごんだ柿という実のなる群生するごんだ柿の木を求めて。
戦後の食糧難の時に家族の飢えを救ってくれ、又、籠一杯の柿の実を買い求める商人に柿の実を売って収入を得た柿の木が今も残っているのか、残っていればその姿が見たいという視聴者の願いである。
手紙の主の心には、飢えを凌いでくれたごんだ柿が、こころの風景として残っている様だ。
ごんだ柿の群生は残っていた。
赤い柿の実をたわわに残して、樹齢100余年の柿の木は衰えずに柿の実を作り続けていた。
しかし、今は柿の実を食べる人も無く、冬の寒さに耐えられず、地上に柿の実は落ちていた。
地元の人々が、ごんだ柿保存会をつくりごんだ柿の食文化を後世に伝えようとしている。
火野正平が訪れた都城市の正応寺ごんだ柿の樹木群生、そして柿の実のたわわになる状況の映像を見て、私は、
「これは産業化できるのではないか。」
と思った。
日本人が培った柿の食文化というものは、多くの人が食し、長い時間をかけて作り挙げられたものである。
現在の食の飽食で忘れられようとしているが、柿の食文化は忘れ去られてよいものではない。
現在は食の飽食に目が眩んだ日本人であるが、外国人の中には、日本がはぐくんだ柿の食文化を受け入れてくれる所は必ずあるであろう。
干し柿は甘く美味しい。
この干し柿を好む人は、海外には必ずいる。
海外にいる日本人も食べたがるであろう。
産業化出来ないであろうか。
「働き場所がない。
産業がない。」
と云って嘆かず、産業はすぐそこに転がっているのでは無いのかと私には見える。
創意工夫すれば、ごんだ柿は産業化出来るのではなかろうかと私には見える。
100年余も休まずに、柿の実を鈴なりに生産してくれる果樹木を生かさない手は無かろう。
柿の渋も、過去の経験の効用に加えてより深く化学的に研究すれば、思いもよらない効用があり、利用価値があると分かるのでは無かろうか。
火野正平の都城市正応寺地区のごんだ柿の旅の映像は、私に上記のごとく発想を与えてくれた。
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