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820)火野正平自転車のこころ旅

 俳優火野正平が、テレビ聴視者の心に残る風景を綴る投稿手紙の場所を、自転車で訪ねる「こころ旅」という紀行番組が面白い。

 NHK-BSプレミアムの平日火曜日〜金曜日午後7時〜7時29分に放送されている。

 平成23年9月26日より西日本編がスタートした。
 神戸を出発して、日本海に出て、日本海沿いに九州鹿児島までのサイクリング紀行である。

 紀行の映像は極めて簡単である。
 ストーリーが特にある訳では無い。

 視聴者からの手紙に書いてある「こころの風景」を目的地にして、火野正平の自転車で行く姿、鼻歌やぼやきの言葉を電波に乗せ、坂道を悪戦苦闘する姿を写し、時には風景を見せ、目的地に着いて、火野正平が視聴者の手紙を読み終えたらおわりの番組である。
 演出など特に考える必要は無い。

 どうしてこの様な紀行番組がよいのか。
 名所旧跡の宣伝ぽい紀行番組とか、「美味しい」というワンフレーズを連発するだけのご当地食べ歩き番組、芸の無いタレントのお笑い番組のオンパレードのテレビ放送にいささかうんざりしている。

 ニュース番組も、果たして真実を伝えているのか疑問が湧いてくる。
 バイアスが二重、三重に掛けられている様な気がしなくもない。

 火野正平の「こころ旅」を見ていると、妙に安心してくる。
 こころの安らぎが得られる。
 よい番組を見たという気がしてくる。

 若い頃、艶話と浮き名を流した俳優火野正平も、齢60を越えて好々爺になってしまった。頭はツンツルの丸坊主である。
 道中の会話、スタッフへの話かけなどを聞いていると、火野正平という俳優は心優しい男であった様だ。

 自転車を停めることひとつをとっても、後から追っかけ随行しているディレクターに、

 「停まってよいですか。」

と声をかけてディレクターの了解をえている。

 「停まるぞォー・・」

という命令口調ではない。

 現在放映中の西日本編の前の東日本編を何気無く見ていたが、ついつい火野正平の演技でなく、自然の振る舞いのごとくの旅の案内に引き込まれて、映像を見てしまった。
 サイクリングの単なる紀行にしか過ぎないのでは無いのか、何が面白いのかと自問しつつ、次も見ようと思うようになってしまった。

 火野正平を起用して「こころ旅」の番組を作ろうと企画した人は誰なのか。
 こうした番組を時代が要求していると、どの様にして洞察察知したのか。
 火野正平が適役だということを火野正平の何処に見出したのか。
 火野正平を抜擢した理由はどの様なものだったのか。
 それらの疑問点を企画した人に聞いてみたい。

 NHKは火野正平という俳優を起用して、ユニークな番組を作ったものだ。
 心安まる、心暖まる良い番組である。

 平成23年10月6日(47日目)は、鳥取県の大山南壁を鍵掛(かぎかけ)峠から見る「こころの風景」だった。地震で山の半分が頂上から崩れ落ちたのか、頂上から白い山肌を不気味に見せる大山南壁の姿は強烈に脳裏に残る。

 鍵掛峠から見る大山の姿は、NHKの映像部スタッフの撮った写真で見ることができる。正平が柵に座っている背後の山が、大山である。下記アドレスである。
 
    
http://www.nhk.or.jp/kokorotabi-blog/image/doya-gao_kagikake.jpg


 番組「こころ旅」のブログがある。
 そのブログに寄せる視聴者の「応援メッセージ」のコメントもまた良い。

 「こころ旅」のブログは、下記アドレスをクリックすれば見られます。


     http://www.nhk.or.jp/kokorotabi-blog/


* 追記 (平成24年4月5日)

 2012年春の旅が始まった。

 平成24年4月2日から、「2012年春の旅」が始まった。
 火野正平の自転車旅である。

 千葉県より、埼玉・群馬・茨城等を通って、太平洋岸を北海道に向かう旅であるようだ。
 今年の旅はどんな心の風景を伝えてくれることか。

 5人の自転車野郎が、縦一列になって背中を丸めて、スビードを上げてさわやかに過ぎ去っていく遠景のカットが良い。


* 追記 (平成24年4月29日)

 ロコモーションが真岡を走る。
 栃木県立真岡女子高等学校屋上から見たロコモーション真岡駅舎は、巨大な蒸気機関車が走っているような景色だ。
 和む心の景色である。
 ロコモーション真岡駅舎の設計は誰がしたのだろうか。


* 追記 (平成24年5月20日) 火野正平塩屋崎に向かう

 東日本大震災の津波の爪痕が生々しく残る福島県いわき市小名浜の海側の道を、NHK・BSプレミアム「こころ旅」の正平は、塩屋崎に向かってサイクリング車を走らせる。

 塩屋崎への海側の道は、建物の基礎のみが見える道だった。

 大津波で家ごと持って行かれ、残ったのはコンクリートの基礎のみである。 累々と残る建物の基礎、家の中にいた人はどうなっただろう・・・・。

 思うだけでも悲しい。

 正平はつぶやく。

 「覚悟はしていたが、これほどだったとは・・・・・・・」

 自転車で走る火野正平も、目に入る悲惨な状況に言葉を失う。

 NHKのテレビで映される映像は、初めてテレビで映される風景であろう。
 今迄多く見た災害の映像のごとくの耳障りな放送記者のしゃべりまくる絶叫するごとくの解説の言葉も無く、バック音楽も無い無声の映像は、日本全国に流される。

 カメラのアングルが良い。
 自転車に乗っている人の目線から景色を見る。

 それによるのか知らないが、あたかもその場所に自分が現在居るごとくの錯覚に陥り、風景を目にし、震災のひどさを改めてかみしめることになった。

 こころ旅で流されたこの風景の映像は、貴重な映像である。
 
 塩屋崎には、美空ひばりの歌碑があるようだ。
 「みだれ髪」の歌碑である。
 「みだれ髪」という曲は、星野哲郎作詞、船村徹作曲、美空ひばり唄の歌謡曲である。

 美空ひばりが、病をおして歌い上げた晩年の名曲である。
 船村徹、星野哲郎にとっても代表作品と云っても良い秀逸な作品である。

     髪のみだれに 手をやれば
     紅いけだしが 風に舞う
          ・・・・・・・

 「けだし」とは、和服の下に着るもので、裾よけである。
 それが紅い色していたのであろう。
 艶つぽい歌詞である。

 ひばりの歌碑は、震災の被害を受けていなかった。(「鑑定コラム910」より転載)


* こころ旅追記 (平成24年7月10日)

 私はホームページを2002年1月に立ち上げた。

 そのなかに鑑定コラムというコラム欄がある。
 2002年1月より、ずっとコラムを書き綴っている。

 最近号まで927編のコラム記事がある。

 3ヶ月ごとにコラム記事のアクセス数の統計を取っている。
 平成24年4月1日〜6月30日までの3ヶ月間のコラムアクセス上位4位に、鑑定コラム820)『火野正平自転車のこころ旅』が入った。

 不動産鑑定のコラム記事ばかりの中で、畑違いと思われる『こころ旅』の記事に多くのアクセスがあった。
 大変喜ばしいことである。

 不動産鑑定とはどういうものかを知る人はあまり多く無いと思う。

 一坪は何uなのか。100uは何坪なのか。

 魚屋の家賃はいくらなのか、レストランの家賃は?

 不動産の価格、地代、家賃について知りたい人は、一度私のホームページの鑑定コラムを訪れられたら。

 目から鱗と云うのはオーバーですが、プラスにこそなれ、マイナスにはならないと思います。


 火野正平は宮城、岩手、青森を通り過ぎ、7月10日より北海道を走っている。

 宮城、岩手のこころ旅は、東日本大震災の災害地を走った。
 街道沿の町並は全くなくなり、基礎コンクリートのみが残る景色を見ると、言葉を失う。

 投稿者の心の景色を訪れても、海岸の景色は、投稿者の手紙が描く景色とは全く異なっている。

 浜辺は無くなっている。
 小島は、外周の土、岩が津波で削り取られ、小さくなって、姿が変わってしまっている。

 津波の被害がどれ程大きかったのか、残された自然の変わりようによって、改めて知る。


 正平は、今、北海道を走っているが、中富良野のラベンダー畑を訪れてくれるだろうか。


* こころ旅追記 (平成24年7月25日) 火野正平野付半島を行く

 NHK・BSプレミアムが放映する火野正平のこころ旅は、北海道を走る。

 およそ8kmもの直線の続く道路を5人の自転車野郎隊は、一列になってすっ飛ばして進む。

 野付半島、トドワラのこころ旅は、供養の旅であった。

 手紙の差出人は、我が子が5歳の時に行った野付半島のトドワラの風景を、こころの風景と綴る。

 その我が子息子は11歳という年齢で、去年亡くなってしまったという。
 5歳の時の思い出がひときわこころの風景としてよみがえるのであろう。

 5歳と云えば、小学校に上がるにはまだまだ時間があり、坊やである。
 その坊やが子供自転車に乗って、尾岱沼キャンプ場から海に突き出た野付半島のトドワラを見る為に、15kmの道のりを走るのである。

 親のこぐ輪っぱの大きい自転車の後を、母親に遅れないようにと、輪っぱの小さい子供自転車のペダルを一所懸命こいで追いかけていく5歳の子供の姿を想像して見よ。
 いじらしく、いとおしくなってくる。

 撮影スタッフが正平が何に使うか気づかない間に、正平は途中で、道端に咲く白い野の花をいくつか摘んだ。

 それを見た瞬間、私は、
 「火野正平は、手紙の主の亡くなった子供を供養する為に、到着したところに捧げるためだな。」
と思った。

 トドワラの見える木道に座って、正平はこころの手紙を読む。
 読み終え、手紙の差出人への語りかける言葉も少なく、トドワラを眺める。
 そしてその場所を静かに立ち去る。

 正平の立ち去った後の木道には、白い野の花が、トドワラに向けて捧げてあった・・・・・・・。
 素晴らしいエンディングである。

 さすが火野正平は映画俳優だ。
 野付半島のこころ旅を、一つの短い映画に仕立て上げていた。
 カメラアングルも又良い。

 この相手のこころを思いやる火野正平の優しい行為に、手紙の差出人は、恐らくこころ動かされ、火野正平の大ファンになってしまったことであろう。

 下記に2つの写真のアドレスを記す。
 一つはウイキペデアの人工衛星から見た野付半島である。
 野付半島の異様な形に驚くであろう。
 もう一つは北海道根室振興局が提供するトドワラの写真である。
 トドワラとは何かを知る事が出来る。枯れ木である。

(衛星からの野付半島 ウイキメデア)

  http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Notsuke_Peninsula_Hokkaido_Japan_SRTM.jpg


(トドワラ 北海道根室振興局)

  https://www.nemuro.pref.hokkaido.lg.jp/fs/2/2/2/0/3/9/6/_/gourment62.JPG



 この野付半島の放送の視聴者の応援メッセージが綴られているNHKのブログがある。
 これが又良い。
 手紙差出人の友人のメッセージもある。
 下記のアドレスである。


   http://www.nhk.or.jp/kokorotabi-blog/400/126659.html#comment

        (「鑑定コラム932」から転載)



* こころ旅追記 (平成24年10月8日) 秋編が始まる
 
 火野正平の「日本縦断こころ旅」2012年秋の旅の放映が、平成24年9月24日より始まった。

 和歌山の那智の大滝を前にして、正平が口上を述べ、ヘルメットを被った5人の自転車野郎が颯爽と坂を下って行く。

 「人生下り坂が最高」と云うがごとく。

 火野正平の自転車の旅が始まった。

 秋の旅は、平成24年9月24日〜平成25年2月3日まで続く。

 和歌山を出発して四国に渡る。
 四国4県を廻って、岡山、広島、山口の瀬戸内を走る。
 九州は東側を走り、最後は沖縄に行くと云う旅程である。

 正平の自転車は、普通ではまずテレビに放映されない場所、地域を走り訪れる。
 これが良い。

 また、全てが予約無しで進められるところが、なお良い。
 つまりシナリオどおりの劇ではないのが良いのである。

 狭い裏道・抜け道と思われる処を走る。
 地元でも、あまり知られていないのではなかろうか。
 交通混雑の道とか自動車の多い所を避けているのであろうが、日常の狭い生活道路のごとくの道を行く。

 後日恐らく地元の人が映像を見たら、

 「ウワーッ、うちの前の道を火野正平は走り抜けている。
 通るのが分かっておれば、道に出て応援したのに。」

と云うであろう。

 いつ通り過ぎるのか、分からないところが、又、この番組の良いところでもある。

 今編のこころ旅は、どの様な風景を映し出してくれるであろうか。
 朝7時45分が待ち遠しい。

 この原稿を書いている時、NHKの良いニュースが耳に飛び込んできた。
 山中伸弥京都大学教授が、2012年ノーベル賞受賞決定のニュースである。
 山中教授のノーベル賞授賞を心から喜びたい。
 日本人の一人として誇りに思う。

              (「鑑定コラム962」から転載)



* こころ旅追記 (平成24年11月3日) こころ旅が1位(2012年10月1日コラムアクセス)
 
 火野正平のこころ旅の記事が、2012年7月1日から2012年9月31日までの3ヶ月の間で、当ホームページの鑑定コラムの記事アクセス集計で1位になった。

 不動産鑑定に全く関係無い、NHKのBSプレミアムで放送の火野正平の自転車による旅番組の記事が、当コラムアクセスbPに躍り出てきた。
 驚くべき現象である。

 何故か私には分からない。
 世相を反映しているのであろうか。

             (「鑑定コラム970」から転載)



* こころ旅追記 (平成24年11月23日) 琴浦町
 
 県別の家賃で県内で最も高い家賃はどこかの分析で、県庁所在地の市よりも高い家賃(面積40uの家賃)の市町村があった。

 例えば、山形は山形市でなく米沢市、福島は福島市で無く本宮市、茨城は水戸市で無く八千代町、栃木は宇都宮市で無く下野市、群馬は前橋市でなく草津町である。

 三重は津市で無く鳥羽市、滋賀は大津市で無く近江八幡市、奈良は奈良市でなく生駒市、鳥取は鳥取市でなく琴浦町と云うがごとくである。

 市町村の名前は分かったが、それが何処にあるのか私は知らなかった。
 そのため、それを知ろうとして、それぞれの場所を調べて見た。
…・・・・・・・・(中略)

 無駄骨のくたびれ損であったが、しかし各自治体のホームページを見ていて、一つ御利益があった。

 定期借地権の土地分譲をしている町が一つ見つかった。

 鳥取県の琴浦町という町である。

 日本海に面し、東に倉吉市、西に米子市に挟まれた人口1.8万人程度の町である。

 「琴と名のつくところは、踏むとキュッ、キュッと音の出る鳴き砂のある浜を通常云うが、鳥取の琴浦町・・・・?
 何処かで聞いた名前だ。いつだったろうか、どこだったろうか。
 ・・・・・・鳥取、・・・・琴浦町?」

 思い出した。
 去年NHK−BSプレミアムの火野正平のこころ旅で登場した町ではなかったか。

 その番組の過去をネットで調べて見た。

 在った。

 平成23年10月5日に放送している。
 一人の視聴者のこころに残る場所は、「鳥取県琴浦町 花見潟墓地」で、火野正平が琴浦町の海岸にある大きな墓地を見ながら手紙を読んでいた番組である。

 「シャーラ船」と言っていたことを思い出した。
・・・・・・・・・・(以下略)

             (「鑑定コラム963」から転載)



* こころ旅追記 (平成24年11月25日) 正平、鞆の浦を行く

 火野正平の自転車のこころ旅は、広島に入る。

 鞆の浦の港に立ち寄った。

 正平が土蔵の建物を指し示し、

 「ここは龍馬に関係するところだょ。」

という。

 それを聞いて、私は、

 「なに、・・・・龍馬に関係するところだと?
 坂本龍馬とどう関係するのか?」

と思った。

 そして「いろは」の文字をみて、

 「ひょつとすると、いろは丸事件の港町なのか?
 瀬戸内海で坂本龍馬の海援隊の蒸気船いろは丸と、紀州藩の船の明光丸が衝突し、いろは丸は沈没してしまった。

 龍馬は、紀州藩の船が悪いと国際法のルールを持ち出して、紀州藩をやり込め、紀州藩から8万余両の莫大な損害賠償金をせしめたいろは丸事件があり、その交渉の舞台となったのは沈没した近くの港であったと記憶しているが、その交渉した港町は鞆の浦であったのか。火野正平は今そこに来ているのか。」

とNHK-BSプレミアムのテレビの映像を見ながら心の中でつぶやいた。

 龍馬暗殺犯は誰かという推理で、このいろは丸事件で龍馬に面目を潰された紀州藩士の人が犯人だと主張する人もいる。
 陸奥陽之助は、龍馬暗殺犯は紀州藩の藩士三浦休太郎と思い込み、海援隊の人々とともに紀州藩士三浦休太郎を襲撃している。いわゆる天満屋事件である。

 龍馬年表で云えば、いろは丸事件が起こった日時は、下記の通りである。

 1867年(慶応3年)4月23日 龍馬が乗っていたいろは丸160トンと明光丸887トンが、霧の深夜瀬戸内の海で衝突する。

 同年4月24日 いろは丸は、近くの港である鞆の港に、明光丸に曳航されるが、途中で沈没してしまう。

 いろは丸が衝突された直後、傾くいろは丸の乗組員は全員自力で衝突した明光丸に飛び乗る。

 龍馬は、明光丸に乗り移った直後、直ちに明光丸の航海日誌を差し押さえる。

 龍馬が航海に必要な国際公法を身につけたのは、英語の出来る長岡謙吉を傍に置き、長岡謙吉に国際公法を口頭で訳させ、それを耳から聞き頭の中にたたき込んで行ったのである。

 英国の議会制度についても、同じ手法で知識を増やしていった。

 龍馬は、1867年11月15日に京都近江屋で暗殺される。
 いろは丸事件から7ヶ月後に、龍馬はあの世に行ってしまった。
 33歳の若さである。
 甚だ残念である。

 司馬遼太郎は、『竜馬がゆく』(文春文庫 株式会社文藝春秋 2009年8月5日第21刷 以下同じ)の「いろは丸」の章(7巻P235〜294)でいろは丸事件について詳しく描いている。

 その章の書き出しは、下記の通りである。

 『竜馬の商法は、大いに盛っている。
 たとえば、丹後(京都府)の田辺藩とも取引が成立した。
 田辺藩は3万5千石の小さな藩で・・・・・・・・・。

   こんな小藩でも藩吏を長崎に派遣して、貿易で利を得たいとやっきになりはじめていたのは、やはり時勢だろう。
・・・・・・・・・・・ 』

 龍馬の海援隊は商売が拡大し、船が足らなくなってきた。
 しかし船を買う金は無い。

 龍馬はうまい方法を思いついた。

 伊予の大洲藩に160トンの蒸気船いろは丸を買えと持ちかける。
 大洲藩はいろは丸を購入する。

 しかし、大洲藩は蒸気船を操る技術を持ち合わせていないことから、いろは丸は海援隊が借り受けて、海援隊が商売に使うという手法である。

 船籍は伊予大洲藩、所属運営は海援隊と云うやり方である。

 現在の海運会社が採用している手法である。

 商船、タンカーの船籍は、リビアとかパナマ船籍で、所属運営は日本の上場している海運会社というごとく。

 つまりリースである。

 龍馬は、現在多くの業界で導入されているリースを海運で考え出したのである。

 船の衝突で、国際法による解決を主張し、実践したのも、坂本龍馬が初めてである。

 国際法による解決の当事者のやりとりについて、司馬遼太郎は、同書P260〜261で、次のごとく描く。

 『海難事故は事件現場のそばで解決するのが国際的常識である。

 「この近くの港といえば備後の鞆(現在、福山市に編入)だ。そこまで舵をまげられよ。」』

と龍馬がいう。

 紀州藩の高柳船長は、

 「藩命がある」

とか、

 「鞆になど寄っていられない」

とか云って明光丸を出航させようとする。

 また、乗船している藩の幹部が、

 「高柳、論議は船上でしろ。船を出せ。」

と命令する。

 この紀州藩の高柳船長の対応及び乗船していた紀州藩の幹部の横車に、龍馬は怒り出す。

 『竜馬は激怒した。いきなり剣のつかに手をかけ、
 「手前勝手なことばかり申されるな。
 万国公法というものがある。
 それを守らぬとあらば、この船上で諸君を撫で斬りにして私も切腹するつもりだ。
 その覚悟で返答されょ。」

と気色ばんだから、明光丸側もやむなく鞆へ船首をまげることになった。』

 紀州藩と龍馬は、鞆の浦で4日間交渉した。

 鞆の浦での話会いは決着がつかず、長崎で話会おうと云うことになった。

 龍馬は、海援隊の本社のある長崎に戻る途中下関に寄った。
 そこで桂小五郎に会い、いろは丸事件のいきさつを話し、紀州藩と海援隊とが戦争することになった場合、長州藩は協力してくれとお願いしている。

 桂小五郎は龍馬への武力協力を快諾している。
 龍馬は、最悪の場合は紀州藩と一戦を構える決意で損害賠償の交渉をしていた様だ。

 龍馬が鞆の浦で滞在した宿は、「桝屋」という回船問屋で、談判所は、越後町の魚屋由兵衛の家と司馬遼太郎は同書で記す。

 いろは丸事件で面目を失った紀州藩の明光丸の船長次席の岡本覚十郎は、その後長崎で龍馬暗殺を計るが、龍馬に瞬時に打ち倒されてしまったと司馬遼太郎は記述する。

 いろは丸は長崎を出て大阪に向かっていた。

 その船には海援隊の一員である紀州藩の浪人であった陸奥陽之助が乗り込んでいた。のちの陸奥宗光である。

 船中での龍馬と陸奥との間の会話を、『竜馬がゆく』のP250で司馬遼太郎は記述している。

 史実か司馬遼太郎の創作かどうか私には分からないが、会話部分を抜粋して転載する。
 龍馬の考え方が描かれていて、私が龍馬にひかれ、好きな個所である。

 龍馬が刀を船長室で磨いていると、そこに陸奥が入って来て、陸奥と龍馬の会話が始まる。
 以下である。

 『「ほう、ご殊勝なことで」
 「やがてこんなものを帯びずに歩く世が来るだろう」

 「そうでしょうか」
 「いまでもそうだが。武器というより、自分の象徴のようなものになっている。この両刀のおかげで無能なやつでもそこそこの仕事ができる。しかしいまに行かぬようになるぜ」

 「下駄屋を将軍にしたい、というのが坂本さんの御熱望ですからな」
 「そうすれば実力だけの世になる」

 「代々禄で食ってきた大名、旗本、諸侯の士が反対するでしょうな」
 「彼等はもう三百年その世禄で食ってきた。
 これ以上なおも食いつづけようとするのはおそるべき欲だ。
 それにしがみつこうとするやつには歴史の天罰がくだる」

 「しかし混乱するでしょうな」』

 余談であるが、陸奥宗光の次男は、古河家に養子に入った古河鉱業の2代目社長古河潤吉である。
 帝国議会で外務大臣であった陸奥は、田中正造から足尾銅山の渡瀬川鉱毒について問われている。

 火野正平は、私に坂本龍馬を久し振りに思い出させてくれた。

             (「鑑定コラム978」から転載)



* こころ旅追記 (平成25年1月18日) 都城市正応寺ごんだ柿は産業化出来ないか

 火野正平のこころ旅は、年末と年始は休んだが、2013年1月7日からNHK BSプレミアムで放映が再び始まった。

 2013年の最初は宮崎県より始まった。
 宮崎から鹿児島そして沖縄へと、視聴者のこころに残る風景を訪ねる旅である。

 火野正平は、宮崎県の都城市に自転車で向かった。
 目的は、正応寺地区のごんだ柿という実のなる群生するごんだ柿の木を求めて。

 戦後の食糧難の時に家族の飢えを救ってくれ、又、籠一杯の柿の実を買い求める商人に柿の実を売って収入を得た柿の木が今も残っているのか、残っていればその姿が見たいという視聴者の願いである。
 手紙の主の心には、飢えを凌いでくれたごんだ柿が、こころの風景として残っている様だ。

 ごんだ柿の群生は残っていた。

 赤い柿の実をたわわに残して、樹齢100余年の柿の木は衰えずに柿の実を作り続けていた。

 しかし、今は柿の実を食べる人も無く、冬の寒さに耐えられず、地上に柿の実は落ちていた。

 地元の人々が、ごんだ柿保存会をつくりごんだ柿の食文化を後世に伝えようとしている。

 火野正平が訪れた都城市の正応寺ごんだ柿の樹木群生、そして柿の実のたわわになる状況の映像を見て、私は、

 「これは産業化できるのではないか。」

と思った。

 日本人が培った柿の食文化というものは、多くの人が食し、長い時間をかけて作り挙げられたものである。

 現在の食の飽食で忘れられようとしているが、柿の食文化は忘れ去られてよいものではない。

 現在は食の飽食に目が眩んだ日本人であるが、外国人の中には、日本がはぐくんだ柿の食文化を受け入れてくれる所は必ずあるであろう。

 干し柿は甘く美味しい。
 この干し柿を好む人は、海外には必ずいる。
 海外にいる日本人も食べたがるであろう。

 産業化出来ないであろうか。

 「働き場所がない。
 産業がない。」

と云って嘆かず、産業はすぐそこに転がっているのでは無いのかと私には見える。

 創意工夫すれば、ごんだ柿は産業化出来るのではなかろうかと私には見える。
 100年余も休まずに、柿の実を鈴なりに生産してくれる果樹木を生かさない手は無かろう。

 柿の渋も、過去の経験の効用に加えてより深く化学的に研究すれば、思いもよらない効用があり、利用価値があると分かるのでは無かろうか。

 火野正平の都城市正応寺地区のごんだ柿の映像は、私に上記のごとく発想を与えてくれた。

             (「鑑定コラム1000」から転載)



* こころ旅追記 (平成25年2月25日) 火野正平が唄う2つの歌

 NHK−BSプレミアムの火野正平の自転車こころ旅は、平成25年2月3日(日)で24年秋バージョンは終わった。

 最終回のこころ旅の手紙の主は、30年前アメリカに行くための旅費稼ぎとして、沖縄八重山諸島の一つの小浜島にアルバイトに行き、道路工事の仕事をした。

 一日の仕事を終えて、夕方宿舎に帰る時に見た西表島に落ちる夕日の美しさが忘れられない。
 その夕日と造った側溝工事が表彰されたということもあり、その側溝は現在どうなっているかという手紙の主のこころの風景を訪ねるのが最終回の旅であった。

 小浜島への旅の前に、石垣島の玉取崎展望台から見た八重山ブルーの海のこころの風景の旅があった。

 こころ旅の手紙の主は女性で、20歳前の頃、父を亡くし、いつまでも母に甘えていてはいけないと、すぐに会いに行けない位の遠い所に行けば良いと、石垣島に来てしまった。今は石垣島に住み、母親になっているが、母親から遠ざかろうとした20歳前の時に、玉取崎展望台から初めて見た八重山ブルーの海の美しさが忘れられないというこころ旅であった。

 手紙を読み終えた火野正平は、手紙の主に贈ると言って、一つの歌を口ずさんだ。

     ♪・・・・・・・・・・
     泣くなよーや ヘイヨー ヘイヨー
     ていだの光受けて
     すこやかに 育て

 どこかで聞いたような歌であった。
 詳しくは知らないが、「童神(わらびがみ)」(古謝美佐子作詞・佐原一哉作曲・上田浩司編曲)という歌で、夏川りみが唄っている歌と、後で知る。

 母親が大事に愛おしく育ててくれたのであるから、母親に心配をかけて生きていってはいけないよと、正平が歌で手紙の主をあたかも諭すごとくであった。

 火野正平がこころ旅の番組で、こころ旅の手紙の主に贈る歌として唄ったのが前に一度あったことを思い出す。

 山口県の秋吉台の長者原の草原を見ながら、「千の風になって」を静かに唄った。

 夫と一緒に長者原に来たが、その夫は今は天国に行ってしまったという手紙の主のこころの風景は、夫と見た長者原の草原であった。

 正平は手紙を読み終えた後に、風になびく長者原の草原に向いながら、秋川雅史が唄った「千の風になって」(新井満日本語詞・新井満作曲)の歌を、手紙の主に贈った。

 手紙の主は、火野正平の唄う「千の風になって」を耳にした時、長者原の草原の上に夫が風になって来ているのではなかろうかと思ったのではなかろうか。

 カメラアングルも大変よく、脳裏に今も残る名カットの一つである。


 玉取崎展望台のこころ旅のNHKのブログは、下記である。

   http://www.nhk.or.jp/kokorotabi-blog/400/145014.html

 長者原のこころ旅のNHKのブログは、下記である。

   http://www.nhk.or.jp/kokorotabi-blog/400/98616.html
   
             (「鑑定コラム1053」から転載)



* こころ旅追記 (平成25年4月24日) 火野正平こころ旅25年春編始まる

 NHK BSプレミアムで、火野正平の自転車による「こころ旅」の春の旅が、平成25年4月1日より始まった。

 鹿児島、熊本、福岡を経て、関西に飛ぶ。

 京都、大阪等の関西から中部地方に向かう。

 岐阜、長野から山梨を旅する計画である。

 我が故郷の「岐阜県」にも火野正平が自転車で訪れる様だ。

 岐阜県は広い。

 標高差も激しい。

 海抜ゼロメートル地帯と云われている海津市から飛騨高山の市街地で600メートルの標高である。

 東京スカイツリーで例えれば、海津市はスカイツリーの足元で、飛騨高山はスカイツリーの天辺(てっぺん)辺りにあることになろうか。

 中部山岳の麓の町はもっと高い標高にある。

 岐阜県から長野県に入るには、道路は中仙道(一部国道19号線)、鉄道はJR中央本線のいずれかを利用しないと長野県には入れない。

 まさか乗鞍岳の安房峠越え、野麦峠越え、御岳山の長峰峠越えは無いであろう。

 映画が作られ、リメイク映画も作られ、また、テレビで放映され、そして劇場の舞台で演じられている大規模集団チャンバラ時代劇「十三人の刺客」の舞台となった「落合宿」を通るか否か。

 日本の背骨の地域を自転車で走るが、火野正平はどんなこころの風景を届けてくれるであろうか。
 どんな歌を唄ってくれるだろうか。
 楽しみである。

             (「鑑定コラム1075」から転載)



* こころ旅追記 (平成25年5月18日) 京都 とがのお

 京都には「とがのお」という地名が2つあるようだ。

 火野正平のこころ旅は、大阪から京都に入った。

 京都に入り、「とがのお」という神社に行くと耳に入ったので、「とがのお」という地名はそうやたらにあるものでないことから、歌にも唄われた「京都 とがのお 高山寺」の「とがのお」とばかり思っていた。

 テレビに映し出される映像は、どうも京都市内らしいとは思われない風景が続く。

 とがのお神社に「とおちゃこ」という火野正平の目的地到着の言葉を耳にして、京都の別の「とがのお」の地域と知った。

 京都府八幡市の「とがのお」にある「狩尾神社(とがのおじんしゃ)」であった。狩尾と書いて「とがのお」と読ませるようである。

 傾斜度30度はあるであろう急傾斜の石階段を登った高台に、その神社はあった。

 こころの風景の手紙の主は83歳の女性で、この階段を登り降りして足腰を鍛えているというおばあちゃんであった。

 その元気さに頭がさがる。

 私が京都の「とがのお」と聞いて京都市内の「とがのお」と思ったのは、私が若い青春の頃に聞いた歌の歌詞が思い出され、その歌詞から思ったのである。

 ♪♪・・・京都 とがのお 高山寺
            恋に疲れた女がひとり
            ・・・・・

 永六輔が作詞し、いずみたくが作曲し、デューク・エイセスが唄った曲『女ひとり』という歌の中の「とがのお」と思ったのである。

 この歌の「とがのお」は「栂尾」という漢字で書く。

 昭和40年代の初め頃にはやった歌だった。
 詞、曲、歌い手の3者の息がぴったりあった良い曲である。
 私もよく口ずさんだ。

 歌い出しは、

 ♪♪・・・京都 大原 三千院
           恋に疲れた女がひとり

と始まる。

 続く歌詞は、

  ♪♪・・・結城に塩瀬の素描の帯が
      池の水面にゆれていた
           京都 大原 三千院
           恋に疲れた女がひとり

である。

 2番に栂尾(とがのお)がでてくる。

 ♪♪・・・京都 栂尾 高山寺
           恋に疲れた女がひとり
            ・・・・・

 そして3番は、

 ♪♪・・・京都 嵐山 大覚寺
            恋に疲れた女がひとり
            ・・・・・・・

である。

 永六輔の作詞であるが、京都の地名と寺の名前を韻をふんで並べ、高級和服と帯をつないで行くという歌詞は、古都京都の風情に和服の女性を溶け込ませ、女性の美しさをより引き立たせていて素晴らしい。

 さすが作詞家永六輔だと思う。

 地名と寺は、

      京都 大原 三千院(1番)

      京都 栂尾 高山寺(2番)
      京都 嵐山 大覚寺(3番)

である。

 きものと帯は、

            結城に塩瀬の素描の帯(1番)

大島つむぎにつづれの帯(2番)
      塩沢がすりに名古屋帯(3番)

である。

 そして状況を、日本人が好む七五調でそれぞれ付け加える。
 これによって、古都京都の風情が浮かび上がってくる。

      池の水面にゆれていた(1番)

        影を落とした石だたみ(2番)
      耳をすませば滝の音(3番)

である。

 栂尾の高山寺の石畳を、つづれの帯に大島つむぎの和服に身を包んだ女性が一人そぞろ歩く姿が、「とがのお」と云う言葉から、浮かび上がってくる。

 詞の最後に追いかけるごとく、再び

      京都 栂尾 高山寺

とくる。

 それほど栂尾の高山寺は、良いところであるのかと思い込まされる。

 歌に惹かれてはいささか単純過ぎるかもしれないが、若い頃、『女ひとり』の歌に惹かれて、大原の三千院を訪れたことを思い出す。

             (「鑑定コラム1081」から転載)



* こころ旅追記 (平成25年7月1日) ジンジロゲーや ジンジロゲー

 火野正平、岐阜県の東部の東美濃(東濃)を走る。

 NHK-BSプレミアムの「自転車こころ旅」の番組で、火野正平は大井ダムの堰堤頂上(天端)を歩いた。

 大井ダムは岐阜県恵那市にある。

 ダム側は、木曽川をせき止めた水を満面に湛(たた)えている。
 ダムと反対側は、50メートル程度の落差があろうか、急峻な滑り台のごとくのコンクリートの堰堤である。
 堰堤の脚元は、ダム築造前の木曽川の岩むき出しの渓谷が見える。

 高度恐怖症気味の火野正平は、へっぴり腰で恐る恐る堰堤天端の狭い通路を、自転車を引いて進む。

 恐怖心を打ち消そうと、火野正平は突然歌を唄い出した。

 ♪♪・・・
     ジンジロゲ−や ジンジロゲ
     ド−レドンガラガッタ 
     ホーレツラッパの ツーレツ 
     マージョリン マージンガラ チョ−イ チョイ
     ヒッカリ コマタキ ワ−イワイ       
     ・・・・・・・

 全く意味不明の歌である。

 何十年ぶりかに聞いた。

 1961年(昭和36年)頃に大ヒットした歌『じんじろげ』である。
 作詞渡舟人、作曲中村八大で森山加代子が唄った。

 火野正平は「ジンジロゲーや ジンジロゲー」の歌を大声で、ダム堰堤の頂上通路を歩きながら唄ってくれた。
 その姿は、少年が暗い夜道を一人で帰る時、怖さを忘れるために大声で歌を唄って急ぐごとく。

 歌が終わってもダムの対岸までたどり着けず、

 「歌が先に終わってしまった。」

とぼやきながら、半分ほど残っているダム堰堤天端通路をこわごわと歩く。

 「ジンジロゲーや ジンジロゲー」の歌は、どういうものか調べてみた。

 ネットの時代は、甚だ便利である。

 「じんじろげ」の語句をグーグルで検索すると、それに関係する記事が検索される。

 「三私説」氏がブログで、じんじろげの歌は旧制第三高等学校の寮歌として歌われていたと、以下のごとく述べられている。

 「三輪佳之氏が『私説・自由寮ヂンヂロゲ』の論考で、ヂンヂロゲの歌は、久留島秀三郎(明治44年二部甲)が明治41年にインド人から聴かされた歌『ヒラミルパニア』が、元歌で久留島の実兄がボーイスカウトに持ち込みボーイスカウトで『マイソールの歌』後に『ヒラミルパニア』と改称されて歌い続けられている。三高で歌われるようになったのは大正5,6年頃であるが、戸塚武彦(大正7三部医)によると大正7年頃には「ジンジロゲヤジンジロゲ、ドーレードンガラカッタ、ホーレツラッパノツエツ、マージョリジョーヤ、シッカリカマタリワイワイワイ」の部分もついて『ヂンヂロゲの歌』として歌われていたという。」

 
   (http://www2s.biglobe.ne.jp/~tbc00346/component/zinziroge.html)

 上記記述から考えれば、元歌はインドの雨乞いの歌であり、それがボーイスカウトで歌われ、旧制第三高等学校の寮歌としても唄い継がれてきた歌といえる。

 それを渡舟人が詩の形を整え、中村八大が曲を付け、森山加世子が唄って日本全国に広まったということになる。

 大井ダムは、発電力5.2万kwで、大正13年(1924年)に築造された。
 建設後89年経過している。

 ダムの耐用年数は100年である。
 後11年で耐用年数がくる。
 11年後に解体撤去することになるか。

 大井ダムは中部地方である岐阜県の恵那市にあることから、地域の電力会社である中部電力のダム・発電所と思われるかもしれないが、そうでは無い。

 関西電力の所有のものである。
 それ故、発電した電力は、大阪方面に送られているのである。

             (「鑑定コラム1095」から転載)



** こころ旅追記 (平成25年7月20日) 落合ダムと小説
 
 俳優火野正平が、NHK−BSプレミアムの「こころ旅」の番組で、大井ダムの堰堤の天端の通路を恐る恐る自転車を引いて歩いて渡っていた。

 この大井ダムは、福沢諭吉の娘婿の福沢桃介が造ったものであるが、近くにもう一つ桃介が造ったダムがある。

 大井ダムの木曽川上流13qに落合ダムというダムがある。

 名古屋からJR中央線(西線)に乗って、松本方面に行くと、中津川駅を過ぎ、落合川駅を通ると車窓の左側にダムが見える。

 落合ダムである。

 名古屋から列車に乗って初めて木曽川が姿を表す。それもダムの姿をして。

 落合川から列車は、坂下(ここまでは岐阜県)、田立(田立駅から先は長野県)と木曽川を右に見る。南木曾、十二兼、野尻、大桑・・・木曽福島・・・・薮原まで木曽川を左に見て進む。

 上流に行くに従い、木曽川も小さな川になる。

 鳥居峠のトンネルを過ぎて、奈良井の駅では、川は右に見えるが、その川の流れは列車の進行方向になる。その川の名前も木曽川では無く奈良井川であり、犀川、信濃川になって日本海に注ぐ。

 鳥居峠が分水嶺である。

 名古屋から中央線に乗って、初めてダムとしての木曽川を見る。
 その木曽川の水をためているダムが、落合ダムである。

 大正15年(1926年)に出来た。

 大井ダムより2年後に出来た。

 私の高校生の時、早稲田大学の文学部を出た教師が、文学史の授業で、地域に関係する小説家の話として島崎藤村のほかに、

 「そこの落合ダムの工事現場で一労働者として働き、小説を書いた作家がいる。」

と云って、もう一人の小説家の話をした。

 その作家の名前を、私は忘れてしまい、長い間、どうしても想い出す事は出来なかった。

 火野正平が大井ダムまで来たこともあり、落合ダムの工事現場の労働者として生活の糧を得て小説を書いた作家は誰であったか調べて見た。

 作家の名前が分かった。

 「葉山嘉樹」

と云う作家であった。

 福岡県京都郡豊津村(現みやこ町)出身のプロレタリア作家というレッテルが貼られているようであるが、高校の国語の教科書にも作品が載っているということから、優れた小説を残したのではなかろうか。

 代表作の一つに、『セメント樽の中の手紙』がある。

 短編小説である。

 読んで見た。

 その中に次のくだりがあった。

 「・・・・・・
 発電所は八分通り出来上がっていた。夕暗に聳える恵那山は真っ白に雪を被っていた。汗ばんだ体は急に凍えるように冷たさを感じ始めた。彼の通る足下では木曽川の水が白く泡を噛んで、吠えていた。
 ・・・・・・・・」

 上記引用文の中の「発電所」は、落合ダムである。
 ダムの堰堤すぐ上流に、恵那山を源とする落合川が、木曽川に流れ込んでいる。
 それ故、落合ダムから、落合川の川筋の先に恵那山が聳えるごとく見える。
 小説では、冬の恵那山が描かれている。

 ダムが造られる木曽川の流れる水を「白く泡を噛んで、吠えていた」と、かっての昔、筏を組んで木曽川の川下りで材木を尾州に運んだ「中乗りさん」を悩ました峡谷の躍動する水の流れを描写する。

 この木曽川の水の描写、「白く泡を噛んで、吠えていた」の表現は、源実朝が詠んだ和歌の海の寄する波の描写、「われてくだけて裂けて散るかも」を思い出させ、それに優るとも劣らない。
 
 『セメント樽の中の手紙』後半、女工の手紙が綴られる。

 愛しい人を無くした女の悔しさ、切なさを一気呵成に折りたたんで独白するくだりがある。
 その独白は長い。小説の主要部分である。

 この女の人の独白の文章スタイルは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に登場する女の人の長い独白の書き方にどこか似ている。

 葉山嘉樹は、ドストエフスキーの作風の影響を受けているのであろうか。

 『セメント樽の中の手紙』は、3000字程度の短編である。
 5分位の時間があれば読める。

 無駄をそぎ落とした文章の短編である。
 ネットにも公開されており、ネットを捜せばある。

 一読されることを勧める。
 
 小田切進による葉山嘉樹の年譜(『現代日本文学大系56 葉山嘉樹・黒島伝治・平林たい子集』昭和60年11月10日 11刷 筑摩書房)P422によれば、

 ・大正13年(1924年) 30歳
   この頃、岐阜県恵那郡中津町(現中津川市)に移住。

 ・大正14年(1925年) 31歳    木曽谷の落合ダムの工事現場で働いた。 
 ・大正15年(1926年) 32歳 1月『セメント樽の中の手紙』を発表。    下宿していた中津町で西尾菊江(通称菊枝 20歳)を識り、西尾家の反発があったが結婚。

とある。

 私が高校の文学史の授業で聞いた教師の話は、事実であったようだ。

 私の故郷である坂下町(平成の大合併で、現在は中津川市になっている)の役場が、町民に配布している広報「さかした」( 昭和59年1月1日 428号」)の中に、坂下町に隣接する町村の紹介として、こんな文章が載せられていた。

 「大正末期から昭和初期の文壇に記念碑的足跡を残したといわれる作家葉山嘉樹は、昭和十五年に木曽山口村に家を求め移住した。短編小説集『子を護る』には、山口村での生活を描いたものが幾つかある。」

 故郷の坂下町の役場発行の広報の編集関係者の中に、葉山嘉樹に造詣が深い人がいたようだ。素養のレベルは高い。

 葉山嘉樹は、昭和20年に亡くなっている。死後68年経っている。著作権の権利保護期間が過ぎたためかどうか知らないが、下記アドレスで『セメント樽の中の手紙』は、公開されている。

      http://www.aozora.gr.jp/cards/000031/files/228_21664.html


  (追記) 平成25年8月19日

 上記アドレスは、「青空文庫」という団体が、ネットに公開している葉山嘉樹の短編小説『セメント樽の中の手紙』のアドレスである。
 同団体は、著作権の保護期間の過ぎた小説等文学作品を、インターネットで無料公開している団体である。
 その「青空文庫」創始者である富田倫生(とみたみちお)氏が、平成25年8月16日61歳で亡くなったことを時事通信がニュースとして伝える。
 「青空文庫」を利用したものの一人として、富田倫生氏の功績を称え、ご冥福を祈る。

             (「鑑定コラム1099」から転載)



** こころ旅追記 (平成25年8月17日) NHKこころ旅「25年春の旅」二十曲峠で終わる
 
 NHK-BSプレミアムが放映する火野正平の日本縦断自転車こころ旅の平成25年春バージョンは、平成25年7月28日(日)に終わった。

 火野正平は、我が故郷の岐阜県を走り、岐阜県から長野県へは、中津川から高速道路の中央道をバスで県境の恵那山トンネルをくぐって阿智に入った。

 長野県、山梨県をあえぎ走り、最終日は、達筆な手紙が綴る山梨忍野村の二十曲峠(にじゅうまがりとうげ)からの富士山の景色でこころ旅は終わった。

 忍野村の忍野八海から富士山を背にして二十曲峠に向かう自転車野郎5人衆、火野正平、カメラ技術、集音音響技術、監督、自転車修理技術の5人の遠景カットは、様になっていた。

 望遠レンズカメラを使った引いたカットである。
 映画の黒沢明監督の好むカットのようであった。

 バック音楽として「ケ セラ セラ」が流れる。
 音響担当者のセンスが良い。

 なるようになるさというメッセージと私は受け取った。

 火野さん、目的を信じて、何も考えずに、気楽に坂道をあえぎながらも一所懸命自転車をこいで行けば、峠に到着出来るょということか。

 二十曲峠の急な登り坂で、こぐ自転車はよろよろしながら、あえぐ火野正平の口から、「おらは死んじまっただ  おらは死んじまっただ ・・・・・」と、つぶやくごとく歌が、突然飛び出てきた。

 「・・・・・天国よいとこ一度はおいで 酒はうまいし ねえちゃんはきれいだ・・・・・」

 これが火野正平の演技力か。
 急坂をあえぎながらペダルを踏む旅最後の日に・・・・、その絶妙さに感嘆する。

 ザ・フォーク・クルセダースが唄っていた「帰って来たヨッパライ」という歌である。

 作曲は加藤和彦で、ザ・フォーク・パロディ・ギャングが作詞したものである。1968年(昭和43年)頃流行った歌である。

 人を喰った内容の歌である。
 当時は歌謡曲・演歌全盛の頃である。

 歌謡曲の王道から見れば、はみ出している歌詞であり、リズムであるが、これらの類の若者の音楽、シンガーソングライターの出現が、その後の日本の大衆音楽を大きく変えていくことになる。

 この歌は、日本に新しい大衆音楽の流れを創り出した曲かもしれない。

 平成25年9月23日からは、北海道を出発点にして25年秋バージョンが始まる。
 火野正平頑張れとエールを送りたい。

             (「鑑定コラム1112」から転載)



** こころ旅追記 (平成25年10月23日) 舘山寺温泉 pH7.4 泉温33.7度
 
 「火野正平の記事があったので持ってきました。どうぞ」
と1つの記事を手渡された。

 B4サイズほどの大きさの記事であった。
 上段に火野正平の笑顔の写真、下段に文章が綴られていた。

 上段の写真は、道路際の柵に腰掛けて、火野正平が笑顔を見せている。
 バックは山麓の一部である。

 バックの山麓の一部が写っている写真を見た時、瞬時に、NHK-BSプレミアムの「こころ旅」の

 「鳥取大山の南壁をバックにした鍵掛峠のカットだ。」

と心の中で叫んだ。

 その写真は、NHK-BSプレミアムの「こころ旅」の映像部スタッフが撮った、下記アドレスの写真である。

     http://www.nhk.or.jp/kokorotabi-blog/image/doya-gao_kagikake.jpg


 この鍵掛峠から見る大山南壁の放送は、「こころ旅」の多くの放送の中で、私が最も秀逸と思っている2つの内の1つである。もう一つは北海道の野付半島の旅である。

 火野正平自身も記憶に残る心の旅の中で、鍵掛峠の旅は、大きなウエイトを占めているのでは無かろうか。そうであるからこそ、選ばれたカットでは無かろうか。

 何故私に、火野正平のこころ旅の記事を?

 私は疑問に思った。

 「鑑定コラムを見ています。拓治さんがこころ旅の番組のファンと知りましたので・・・」

と記事提供者は云う。

 2013年の秋10月の中半、浜松舘山寺温泉で開かれた坂下中学3年D組の同窓会に、同窓生の一人が、火野正平のこころ旅の記事を持ってきてくれた。

 私は驚いた。

 中学の同窓生の中で、私のホームページの鑑定コラムを読んでいる人がいてくれたのかと。

             (「鑑定コラム1131」から転載)




** こころ旅追記 (平成25年11月18日) 火野正平、プラットホームでかくれんぼ
 
 2013年9月23日よりNHK BS-プレミアムで、火野正平自転車のこころ旅25年秋編が始まった。

 北海道稚内を出発点にして、北海道、青森、岩手、秋田、山形、宮城そして福島と自転車は行く。

 現在(2013年11月18日)は、福島の旅を終えて、休憩一週間の休みである。

 太平洋岸の岩手、宮城、福島は、1年前にも火野正平は訪れている。

 東日本大震災の被災地の被災状況は、1年前とあまり変化していない。

 「何も変わっていない。」
 「記憶が風化して、現状が当り前と思うことが怖い。」

と、言葉少なくつぶやきながら正平は被災地を走る。

 一人の若い女性が背中に機械を背負い、茂みから出て来た。
 歩きながら放射能の量を調査しているという。

 そして云う。

 「まだまだですね。」

と。

 福島の不動産鑑定士達が、震災後間もない時点に、、福島県下の基準地価格という土地価格の基準とする土地の場所の放射線量を全て量った。

 その調査結果と現在の調査結果を比較することによって、放射線量はどれ程減ったのか知ることが出来る。福島県下の踏み込むことが出来なかった地域を除く全ての基準地の放射線量の変化を知ることが出来る。

 震災後間もない時点での480地点の放射線量が分かることは、どれ程大切なことか。
 時間がたてば経つほど、福島県の不動産鑑定士が2011年7月に調査発表した福島県下480個所の基準地地点の放射線量調査のデータの重要さが分かって来るであろう。

 福島県の小野町を訪れる自転車こころ旅があった。
 小野中学校の坂とその坂より見た矢大臣という山の景色をこころの風景とする手紙だった。

 福島駅から電車で目的地近くの駅まで輪行するのであるが、電車を福島駅で待つ間に、1つの寸劇が、地元の正平ファンの一人のご婦人と火野正平の間で繰り広げられた。

 プラットホームに立つ火野正平を見つけたご婦人が、正平に駆け寄り話し掛けようとする。

 それを察知した正平は、プラットホームの太い柱に隠れる。柱の反対側まで来たファンのご婦人は、柱から身を乗り出して正平に話し掛ける。

 正平は、柱の反対側で隠れるごとく顔を違う方向に出す。

 柱の反対側にいるご婦人は、正平に話し掛けようと、顔を正平のいる方に向ける。
 正平は逃げるごとく、顔を違う方向に向ける。

 柱を挟んで、二人の顔が右左と交互に移動する。

 かくれんぼである。

 二人の絶妙なかくれんぼを見て、私はそのほほえましさに思わず笑ってしまった。

 いい年の男女二人が、子供のごとく駅のプラットホームの1つの柱を挟んでかくれんぼするのである。

 ご婦人は、正平に問いかける。

 「福島に美しい女性は居ましたか。」
 「温泉はいかがでしたか。」

 問を語りかけるご婦人を相手に、柱の影に身を隠すかくれんぼという台本の無い茶目っ気寸劇にとっさに仕立て上げた火野正平の演技力に舌を巻く。火野正平は優れた俳優だ。

             (「鑑定コラム1140」から転載)




** こころ旅追記 (平成26年2月4日) 火野正平の旅は開高健の言葉で終わる
 
 火野正平の自転車の旅は終わった。

 NHK BSプレミアムが、2013年9月23日から放送していたにっぽん縦断こころ旅「2013年秋の旅」は、2014年2月2日で終わった。

 最後のこころの風景は、投稿者が、小学校1年生の時に海水浴に行った愛知県日間賀島の頂上から見た篠島とその海の広さに感動したこころの風景であった。

 2013年秋の旅で、火野正平の自転車のこころ旅は、日本全国を制覇した。

 多くの人々のそれぞれのこころの風景を見せてくれたが、見せられたこころの風景が全部日中の風景であった。一つとして夜のこころの風景はなかった。

 一つくらいネオンのきらめく夜の風景が、こころの風景であるという投稿があっても良さそうと私は思うが。

 埼玉の方面の仕事を終えて東京に向かうと、大抵夜になる。
 常磐道から隅田川の左岸を走る首都高速道路を南下すると、今は無くなったが、国技館の対岸のビルの屋上に設置された醤油メーカーの大きな赤いネオンが目に入った。川面に映える消えたりついたりするそのネオンを見ると、東京に無事帰ってこれたという安堵感が湧いてきた。

 その安堵感は、東京が第二の我が故郷になりつつあると、私に思い起こさせた。そのネオンは今は無いが。

 地方で仕事を終え、地方の都市の飛行場から東京に帰る時、東京の羽田空港に着くのは夜である。

 飛行機が羽田空港の滑走路に着陸したあと、エプロンスポットまで行く間に、飛行機の窓から見える暗い飛行場の地上一杯に点灯する青い誘導灯の色は、無事東京に帰ってこれたという安心感と旅で疲れたこころを癒してくれる。

 2013年秋の旅編では、火野正平の歌を聴くことが出来なかった。
 「千の風になって」のごとくの歌をいつ唄ってくれるのかと、番組を見ていたが、ついに歌は聞こえてこなかった。残念である。

 旅の最後は、日間賀島の頂上からのどかな伊勢湾を見ながら、正平が好きという開高健の言葉「オイラ 遠くに行くだ」をつぶやいて終わった。

 開高健にそんな言葉があったのか、私は知らない。

 火野正平の口から、「開高健」の作家の名前が出て来るとは思ってもいなかった。

 開高健の言葉としては、

 「明日、世界が滅びるとしても
 今日、あなたはリンゴの木を植える」

があるが、私はそれくらいしか知らない。

 開高健は「かいこうたけし」と読むが、私は「かいこうけん」と読んでいる。その方が、キリッとしていて、開高健の人柄を反映しているのではないかと私は思うことから。

 開高健という作家を知ったのは、私が大学生の時であった。

 『週刊朝日』に連載された開高健のベトナムの戦場から送られた従軍レポートであった。

 南ベトナムでのアメリカ軍・南ベトナム軍の連合軍とベトコンとの密林での戦争の状況を伝える従軍記である。

 銃弾が頭の上をかすめ、死ぬかもしれないと云う恐怖におびえ、命を懸けた生々しい迫力ある記述文章に驚いた。日本の、東洋のアーネスト・ヘミングウェイだと思った。

 晩年は、魚釣りの話ばかりの開高健の姿がテレビに多く映されていたが、それはベトナム戦争の戦場での従軍体験が、開高健をそう変えさせたのでは無かろうかと私は思う。

 その『週刊朝日』に連載されたベトナムの戦場から送られた従軍レポートに、筆を加えたものが『ベトナム戦記』である。

 火野正平が開高健を思い出させてくれた。
 何十年振りに開高健のその『ベトナム戦記』を読んで見ようと思う。

           (「鑑定コラム1168」から転載)




** こころ旅追記 (平成26年3月16日) 開高健の『ベトナム戦記』
 
 NHK−BSプレミアムの火野正平の自転車のこころ旅「2013年秋の旅」編は、平成26年2月2日に終了した。

 その最後の放送で、火野正平は、好きな作家という開高健の言葉を残して、テレビ映像から去って行った。

 開高健の名前が、火野正平の口から飛び出てくるとは思ってもいなかったが、その名前を聞いて、懐かしくなった。

 私の心に残る開高健とは、『ベトナム戦記』の開高健であることから、その作品を再び読んでみようと図書館に行き、それを借りてきて読み直してみた。

 ずっと昔の大学時代に読んだことゆえ、内容は殆ど忘れていたが、読み進むにつれて、思い出す個所が2、3個所あった。

 その個所は、私が初めて知り、それは現在も私の知識となっているものであった。

 私の知識の1つとなったのは、この本のここだったのかと、知識の源を探り当てた喜びを感じつつ読み進んだ。

 開高健の『ベトナム戦記』は、昭和40年(1965年)1月8日〜3月12日の『週刊朝日』に連載された開高健の南ベトナムから送られた戦記レポートに筆を加えて、昭和40年3月26日に、朝日新聞社から発行されたドキュメンタリーである。

 その『ベトナム戦記』の書き出しは、次の記述から始まる。

 「どの国の都にも忘れられない匂いというものがある。」・・・・・・・

      ・・・・・・・・・・・・・(以下省略)

 火野正平が、私に開高健の『ベトナム戦記』を読み返すことを促してくれた。

 火野正平に感謝する。

 火野正平有り難う。
 
 開高健の『ベトナム戦記』のコラム記事の続きを読みたい人は、下記をクリックして下さい。

        鑑定コラム1181)「開高健の『ベトナム戦記』」

             (「鑑定コラム1181」から転載)




** こころ旅追記 (平成26年4月9日)火野正平が岩村に
 
 NHK-BSプレミアムの「こころ旅 2014年春」バージョンが、2014年3月31日より始まった。

 愛知県を出発して、岐阜県、滋賀県そして日本海沿を北上して、北海道に行く火野正平の自転車の旅である。

 再びの岐阜県の旅は、2014年4月7日より始まった。

 岐阜県最初の旅は、瑞浪の陶(すえ)より東に向かい昔の旧鶴岡村、旧遠山村を通って、岩村の山城であった旧岩村城の麓にある「大名墓地」という墓地を訪ねる旅であった。

 旧遠山村は、直参旗本の遠山明智家の所領である。
 江戸北町奉行そして大目付になった遠山景元、通称「遠山金四郎」の家系の所領である。
 映画、テレビドラマでおなじみの「桜吹雪の遠山の金さん」の所領である。

 岩村城は、遠山七家の惣領家の城であった。
 天正3年(1575年)の武田軍と織田軍の岩村の闘いで、遠山惣領家は滅亡する。
 岩村城は、その後徳川幕府の丹羽家、松平家が城主となる。。

 遠山七家で生き残ったのは、苗木遠山家と明智遠山家の2つのみで、苗木遠山家は苗木藩の城主として生き残り、明智遠山家は、旧遠山村、旧明智町を所領とする直参旗本として徳川幕府に仕えた。その家督を継いだ中の一人が「桜吹雪の遠山の金さん」である。但し桜吹雪の彫り物をしていたかどうか不明であり、多分に映画、ドラマ用の創作に近い。

 実践女子大学を創った下田歌子は、岩村の出身であり、岩村に下田歌子の墓がある。

 ずっと昔、私は下田歌子の墓を訪れたことを思いだした。

 正平の自転車は、坂に造られた岩村の城下町商店街の坂道をあえぎあえぎ登る。

 その町並は、昔の面影が色濃く残されている。
 電柱がない。
 道路上空には電線の架空が全くない。
 ギラギラした広告もない。

 平成の大合併で恵那市に併合される岩村町の最後の町長は、古い城下町の町並を残そうとした。

 城下町のメーン道路から電柱、電線を撤去し、町は木造2階建の古い建物のままとし、町並の保存を計った。

 町民も協力した。
 江戸時代の頃の岩村城下町がほぼ再現した。
 旧岩村城の物見櫓も再現させた。

 町を訪れる観光客は増えた。

 他方、町長はトイレの水洗化にも尽力した。

 そのアイデア町長は、時の小泉首相に、「部下を引き立てて、気持ちよく積極的に仕事に取り組めるようにして働かせるのが、重要な職務である」と説く、旧岩村藩の江戸詰学者であった佐藤一斎を売り込んだ。

 これが見事に成功する。

 電柱のない昔の姿をした町並の家の2階の窓は開け放たれ、ひな人形が飾られている。岩村町を訪れた観光客は、各家のひな人形を見て楽しむことが出来た。

 月遅れのひな祭りの最中に、正平の自転車隊は、岩村に来たのである。

 「大名墓地」の入口近くに下田歌子の墓が、テレビ画像から見えた。

 私が昔訪れた下田歌子の墓は、「大名墓地」と呼ばれる墓地にあったのかと改めて知る。


             (「鑑定コラム1191」から転載)




** こころ旅追記 (平成26年7月5日)木村伊兵衛の秋田おばこ
 
 火野正平の自転車は、秋田を走っている。

 秋田駅だったか。
 菅傘を被った農作業スタイルをした若い秋田の女性を映したポスターが駅構内に貼ってあった。

 「あきたびじょん」

のキャッチフレーズの写真ポスターである。

 「びじん」とあるべきところだが、「じ」と「ん」の間に小さく「ょ」の字が入っている。美人とビジョンという言葉を引っかけているコピーのようである。

 火野正平もこのポスターの前に立ち、「美人だょな」とつぶやいている。

 その瞳、唇、そして若い女性の表情から、みずみずしい素朴な美しさが引き出されている。この美しさが引き出されている写真は、素人写真家が撮れるものではない。
 プロの撮った写真である。そのプロも並のプロではない。

 木村伊兵衛の「秋田おばこ」の写真である。

 火野正平の自転車旅番組であるNHK-BSプレミアムの「こころ旅」の番組の中で、木村伊兵衛の「秋田おばこ」の写真作品が見られるとは思いもよらなかった。。

 木村伊兵衛は、土門拳と並び称せられる日本を代表する名写真家である。今はもういない。

 去年(2013年)東京ミッドタウンで個展が開かれていた。

 木村伊兵衛には、女優を被写体にした美人写真もあるが、美人写真としては、女優の写真よりもこの「秋田おばこ」が最高傑作では無いかと私は思う。

 下記アドレスは、去年富士フイルムが東京ミッドタウンで開いた木村伊兵衛の個展のパンフレットのアドレスである。そのパンフレットの表紙に「秋田おばこ」の写真が載せられている。田原が最高美人写真という「秋田おばこ」という写真はどういう写真か下記アドレスをクリックして目にして下さい。写真はクリックすれば大きくなります。


        http://www.tokyo-midtown.com/jp/event/2013/7451.html


             (「鑑定コラム1220」から転載)




** こころ旅追記 (平成26年7月29日)金山ダム湖のラベンダー
 
 NHK BSプレミアムが放映する火野正平の自転車の『こころ旅 2014年春』編が、2014年7月25日で終わった。

 最後の旅は、北海道金山ダム湖に沈んだ故郷の畑と手紙主が小さい頃に遊んだせせらぎを訪ねてのこころ旅であった。

 金山ダムの堰堤の天端が道路になっており、その天端道路をこわごわ走る火野正平のぼやきと姿は、岐阜県の大井ダムの天端を大声を出して、「♪♪ジンジロゲーやジンジロゲー・・・・・」と唄いながら、カラ元気を出して渡っていた姿を思い出させた。

 村の多くは金山ダムの底に沈んだことであろうが、手紙を書いた人の両親が開墾し耕していた畑は、買い上げられ、湖畔の公園になっていた。

 両親が開墾したであろう畑は、公園のラベンダー畑になり、ラベンダーが咲き誇っていた。

 私は、去年(平成25年)の8月の終わり、富良野の富田ファームを訪れたが、その時にはラベンダーは刈り取られており、ラベンダーの花を見ることは出来なかった。

 今年、富田ファームではないが、金山ダム湖畔の咲き誇るラベンダー畑をテレビで見ることが出来た。火野正平のこころ旅の番組に感謝する。

 金山ダム湖畔のラベンダー畑も良いところだ。

 金山ダムのラベンダーの咲き誇る姿をNHKの映像スタッフが、撮っている。下記アドレスで見られます。

      http://www.nhk.or.jp/kokorotabi/photo_album/img/photo_gallery/photo/2014sp_hkd2_20.jpg

 下記に、金山ダム湖畔のラベンダー畑を背景にして、NHKの映像スタッフが腕によりを掛けて撮ったこころ旅の手紙を読む火野正平のショットのアドレスを記す。クリックすれば写真に繋がります。

     http://www.nhk.or.jp/kokorotabi-blog/image/saved/2013/05/P1100180-thumb-300x225-341679.jpg


             (「鑑定コラム1230」から転載)




** こころ旅追記 (平成26年10月13日)2度目の鳥取県を火野正平5連者は行く
 
 2014年9月22日より、NHK−BSプレミアムで、火野正平の自転車日本縦断こころ旅『2014年秋』が始まった。

 『2014年秋』は、「ちびりそう」の惹句と映像が私の脳裏に強烈に残る大阪を出発地として、京都、兵庫、鳥取、島根、山口そして九州に渡り、沖縄へと行く旅である。

 2014年10月6日の週は、正平5連者隊は、鳥取県を走った。
 3年振りの鳥取県である。

 3年前は、鳥取の観光地の鳥取砂丘を火野正平は歩いたが、今回は傍を走る街道の歌碑の前で休憩するだけであった。

 通り過ぎの一服である。

 火野正平が一服した歌碑とは、誰の歌碑か。

 有島武郎の歌碑であった。

 その歌碑には、

    「浜坂の遠き砂丘のなかのしてさびしきわれを見出でつるかも」

という短歌が刻まれていた。

 有島武郎は、鳥取の砂丘をみて、

    ・・・・・さびしきわれを 見出でつるかも

と歌った。

 砂丘から、自分の心の中のどんな寂しさを発見したのであろうか。

 この歌を詠んで、1ヶ月後に有島武郎は、愛する人と一緒に自殺したという。

 この有島武郎の愛人との自殺によって、鳥取砂丘は全国的に有名になったという。

 私は有島武郎が、鳥取砂丘を訪れたということなぞ知らなく、有島の死によって、鳥取砂丘が全国的に有名になったことなぞ全く知らなかった。

 有島武郎の小説は、『生れ出づる悩み』しか読んだことが無い。
 『カインの末裔』、『小さき者へ』という小説も有名と聞く。

 『小さき者へ』の小説の一部が書かれた碑は、北海道札幌の大通公園に建っていたことを思い出す。その碑はイサムノグチの彫刻である黒い滑り台(『ブラック・スライド・マントラ』)の近くにあったと記憶している。

 私が有島武郎の名を強く覚えているのは、その素晴らしき兄弟の存在である。
 有島武郎は長男である。
 次男は画家の有島生馬であり、三男は作家の里見クである。
 この三兄弟には、どんな血が流れていたのか。

 有島武郎には子供がいた。長男が、美男映画俳優の森雅之である。

 森雅之は、黒沢明の『羅生門』で、ベネチア映画祭で金獅子賞を受賞する。
 溝口健二監督の『雨月物語』で、ベネチア映画祭で銀獅子賞を受賞する。

 火野正平の鳥取の魚見台の「覗岩」の旅には笑ってしまった。

 鳥取に転勤になり、子供が小学生の低学年の頃、魚見台に行った時、子供が魚見台の展望台にある「覗岩」にある丸い覗き穴に頭と体を入れたが、途中でもがき始めた。穴から体が抜けられなくなってしまった。

 引いても、押しても穴からぬけだすことが出来なかった。
 魚見台にいた人々に手伝ってもらって、30分間ほどして、やっと穴から体を抜くことが出来たという。

 その思い出の「覗岩」を火野正平に見てきてくれという手紙である。

 魚見台の「覗岩」は目のごとく2つの穴があいていた。
 小さな穴である。
 その穴に良く体が入ったなと思う。

 テレビの映像に映る小さな穴に、体を抜こうとして、もがき、バタバタする子供の姿を想像して笑ってしまった。

 当の子供と親は必死であったであろうが。

 御来屋駅から大山町鈑戸(たたらと)の両墓制の旅は、思わぬ人の出会いが待っており、筋書きの無いドラマが展開した。

 「御来屋」は「みくりや」と読むようだ。
 言葉から聞くと、当て字では無いかと思う。

 「みくりや」と聞くと、「御厨」が浮かんで来る。
 「御来屋」は、「御厨」のことではなかろうか。

 「御厨」という言葉を使用することは、畏れ多く憚れるということから「御来屋」という文字を当て字としたのではなかろうか。

 「御厨」となると、相当由緒ある地域と思われる。
 「御厨」の「御」は、神を意味し、天皇もしくは神社である。
 「厨」とは、その台所を意味する。

 「御厨」とは、天皇もしくは~社に供える魚貝類・果物類等の食べ物を作るための建物、もしくは皇室、神社の所領を意味する。

 後醍醐天皇が隠岐の島に流され、倒幕のため島を脱出してたどり着いたのが、「御来屋」の港ではなかったか。

 「鈑戸(たたらと)」という地名も、古く由緒ある地名ではなかろうかと思われる。

 「たたら」は、製鉄を意味する。この地域で鉄鉱石か砂鉄が出たのか。
 「と」は、出入り口を意味する。

 「たたらと」は、製鉄する場所の入り口或いは砂鉄採掘場の入り口ということか。
  但し、この解釈は、私が勝手に推測したものである。全く間違いであるかもしれない。

 3年前、正平は、大山の鍵掛峠から見た大山南壁のこころ旅をした。
 私のこころ旅のベスト3にランクする旅であるが、その旅の苦しさを正平は、今回走りながらつぶやいていた。
 自身も思い出深い旅であった様だ。

 今回の旅の坂道は、3年前と重なる個所があった。
 正平は、坂道をあえぎあえぎ登る。
 バス停に来た時、正平は3年前のバスの輪行を思い出し、言葉にする。

 バスの乗客は、こころ旅のスタッフの他に一人の老婦人ぐらいであった。
 バスの中で、正平とスタッフの雑談が続く。

 前の方に座っている老婦人は、スタッフの雑談に全く興味無く、NHKの旅番組であることも知らぬらしく、そして火野正平が乗っていることも知らぬごとくであった。

 バス停にバスは停まった。
 老婦人は席を立った。

 正平に向かって、そっと、
 「見ています。」
と云って、バスを降りた。

 バスを降りた後、小道の向こうから、正平に向かって激しく手を振り続けた。
 可愛らしい老婦人であった。

 正平は、鍵掛峠の坂道のつらさが思い出させるのか、3年前に手を激しく振ってくれた老婦人の姿の状景を思い出すごとくつぶやく。

 鈑戸の両墓制の目的地に着いた。

 目的地には、いくつもの河原石を積み上げた塚のごとくのものが無数あった。
 死者を埋葬したものであった。「野墓」と呼ばれるものであるようだ。

 髪等の一部を埋めた正式の墓は、別途にある。

 これが、鈑戸の両墓制というものである。

 正平は、両墓制について地元の人に詳しく話を聞こうと、村人を捜すが誰もいない。
 
 やっと、遠くの道を4輪の電動自転車に乗った人が橋を渡るのが見えた。

 火野正平は大声を出して、橋を渡って行こうとする人を呼び止めた。

 声が聞こえたのか、4輪の電動自転車が方向転換し、火野正平のいる方向に向かおうとし始めた。

 火野正平も急いで村人の方向に向かった。

 正平に近づいてくる人は、年老いた婦人であった。

 撮影カメラから遠く離れたところで、老婦人と正平は向き合った。
 老婦人は小躍りしている。
 出会った老婦人と正平は何事か話していた。

 突然、二人は抱き合った。
 正平は老婦人の背中を軽く叩いていた。

 二人で何を話したのか。遠くて話の内容は、分からない。

 カメラは急いで二人に近づく。

 正平は近づくカメラに向かって、大声で云う。

 「あのときのご婦人です。
 3年振りの再会です。
 こんなところで逢うとは。」

と驚きの声を上げる。

 両墓制を詳しく聞こうと呼び止めた人は、3年前バスを降りる時に、
 「見ています」
と言ってバスを降り、去りゆくバスの正平に激しく別れの手を振ってくれた老婦人であったのである。

 あまりの偶然に、正平は、監督に向かって、

 「監督!
仕込みですか?」

と聞く。

 監督は、
 「いや、仕込みでは全くありません。」
と強く否定する。

 大山町鈑戸(たたらと)の両墓制をこころの風景として、投稿されたのは、大阪に住む女性であった。
 そのこころの風景を投稿された女性が、なんと火野正平が再会した老婦人の娘さんであると云うことが、その後分かった。

 ドラマを地に行くごとくの展開で、実際にそんな事もあり得るのかと思われる3年の時間を引きづった感動する出会いであった。

 下記に、3年前の鍵掛峠の柵に腰掛ける火野正平の写真のアドレスを記す。
 NHK−BSプレミアムのこころ旅番組のブログに掲載されているものである。素晴らしい良いショットの写真である。鑑定コラム1131で見た新聞記事の写真も、この写真であったようだ。

     http://www.nhk.or.jp/kokorotabi-blog/image/doya-gao_kagikake.jpg


             (「鑑定コラム1263」から転載)




*** こころ旅追記 (平成26年12月28日) 火野正平の「こころ旅2014年 秋」は終わった  鑑定コラム1294転載

 NHK−BSプレミアムの番組である火野正平の自転車による日本縦断「こころ旅2014年 秋」編は、2014年12月19日(金)で終了した。

 最後の旅は、沖縄の宮古島で育てられている「宮古馬」を訪ねるこころ旅であった。

 南の沖縄とはいえ、冬の風のある雨の日は寒い。

 正平と旅の一行は、寒かったのではなかろうか。

 雨の中むかい風が強く、自転車はスイスイと進まない状態であった。

 宮古馬はどこにいるのかと正平のぼやきが出る頃に、ひょこりとその馬に遭遇した。

 こころ旅の手紙の主は、人生に疲れ夢破れ、風雨の日に、日本の南の果て近くの宮古島に来て、あてもなくさまよっていた。

 さまよっていて、偶然、西平安名崎近くのスマヌーマ牧場の宮古馬に出会った。

 馬たちは、今にも屋根が風で吹っ飛びそうな小屋の中で、強風に吹かれ、雨にびっしょり濡れながら互いに身を寄せあい、堪え忍び立っていた。

 そうした馬が、自分の近くに寄ってきてくれた。

 その馬の目は、「どうしたんだ。元気無いぞ。」と自分を慰めてくれるごとくであった。

 風雨の中でじっと耐えて、生きている宮古馬の苛酷さから見れば、今の自分の悲しさなど小さいものだと悟り、生きる力を宮古馬からもらったという手紙であった。

 宮古馬は、日本の在来種の馬で、そのこころ旅の手紙では、世界中で20数頭しかいない状態と言う。

 日本在来の馬は、宮崎の都井岬に放牧されている馬も在来種と記憶している。

 私の生まれ育った地域にも、私が小さい頃には「木曽馬」がいた。在来種の馬である。

 背の低い馬であった。

 農耕とか、木材の搬出などに使われていた。

 今はもう居ない。

 今年(2014年)の9月、御嶽山が爆発した。

 御岳山は、、岐阜県と長野県の県境にある。

 頂上を境にして、東側が長野県、西側が岐阜県にある。

 御岳山爆発映像でテレビに映し出される映像は、長野県側から見た御岳山の東側の姿である。

 その御嶽山の東の麓に旧開田村がある。

 現在は木曽町に合併されているが、その旧開田村に木曽馬が育てられていると聞く。

 木曽馬は、一時は30頭近くまで減り、絶滅が心配されたが、関係者の努力によって、現在は150頭近くまで増えたと聞く。
 
 人それぞれに、人生の転機になった時に目にした場所の風景が、記憶として焼き付いている。

 それは、他人から見れば何でもない普通のありふれた風景であっても、当人にとっては、その風景は、こころに残る特別の風景である。

 そのこころの風景を、火野正平が、自転車で道中苦労しながら訪ね、現在どうなっているかテレビカメラで写してくれる。

 映し出されるテレビカメラの映像は、アングルが良く、時が止まったごとく静かで美しい。

 火野正平の自転車の旅は、あたかも宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩の出だしのごとく、「雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けぬ」であり、旅する方向は、こころの旅の手紙の主が述べるこころの風景を捜し求めて、「・・・・・東に・・・・西に・・・・南に・・・北に・・・」である。

 テレビに映し出される道中の映像も、最後の到着したこころの風景も、今迄テレビカメラが入ったことがない地域、場所がほとんどである。

 居間に居ながらにして、日本全国を旅しているごとくである。

 新しい新日本風土記の映像である。

 30年後、50年後にこの映像を見て、平成の23年、24年、25年、26年の我が故郷はこう言う状態であったのかと知る事ができる。

 貴重な映像となるであろう。末永く保管されることを強く望む。

 NHKは、こころ暖まる良いテレビ番組を作ってくれた。

 今回で終わることなく、続けられることを希望する。


            (「鑑定コラム1294」から転載)

 

*** こころ旅追記 (平成27年4月2日)  火野正平27年春も自転車を走らす  鑑定コラム1333転載

 平成27年3月30日(月)より、NHK-BSプレミアムで、火野正平の自転車による「にっぽん縦断こころ旅」が始まった。

 和歌山を出発して、三重、愛知、静岡と太平洋側を北上し、7月20日頃北海道に至る行程である。

 平成26年12月19日の宮古島の宮古馬を訪れる旅で、火野正平の自転車の旅は終わった。

 2011年2月の旅から4年続いた番組でもあり、これで終わりかなと思っていた。

 NHK-BSプレミアムテレビの視聴者の続行希望が多かったのか知らないが、5年目の平成27年も続行されることになった。

 番組のファンの一人として嬉しいことである。

 朝7時45分から15分見て、夜7時〜7時30分まで「とうちゃこ版」を見る生活がしばらく続きそうである。

 居間にいて、日本を旅しているごとくである。

 テレビに映し出される風景は、観光という営利が絡む観光地の風景ではない。

 特別の人でない極一般の日本で生活している人々が目にしているありふれた風景が、テレビに映し出される。

 他人から見れば、何の変哲もない風景であり、まずテレビに映し出されることのない風景が、テレビに映し出される。

 その風景が心の風景として、心に深く刻み込まれ特別な風景であるという人がいるためである。

 幼い時に母親を亡くし、父親一人に育てられた女性の心の風景は、海の見える高台の公園に登る階段の最上段の一段であった。

 公園から見える海の景色ではない。階段の最上段の一段である。

 幼稚園の遠足は、海の見える高台の公園であった。

 お昼の弁当は、父親が作り、昼休みに勤め先を抜けだし、遠足の目的地である公園に持って行くから待っておいで、そこで一緒に弁当を食べようという約束であった。

 お昼時、園児の同級生の多くは母親と一緒に弁当を食べ出した。

 幼稚園児であった女性は、公園の階段の上で、弁当を持ってくると約束した父親を待ち続けた。

 父親の姿はなかなか見えなかった。

 先生や同級生の園児の母親が、一緒に食べようと誘ってくれたが、園児であったその女性は、父親をじっと待ち続けた。

 汗を拭き拭き階段を上がってくる父親の姿が見えた。

 父親を待ち続けた園児であった女性は、父親の姿が見えた時は、どれ程嬉しかったであろうか。

 二人は、公園の階段の最上段の一段に座り、弁当を食べた。

 女性の心の風景は、約束を守り、弁当を持って公園まで上がってきてくれた父親と一緒に座って弁当を食べた公園の階段の最上段の一段であった。

 幼い心の中に母親のいない寂しさと共に、やさしい父親への信頼が心に深く刻み込まれた出来事であったのではなかろうか。

 正平が階段に座り、低くぼそりとつぶやく。

 「寂しかっただろうな。**さん来たょ。」

の一声が、番組の良さを倍増させる。


            (「鑑定コラム1333」から転載)

 

*** こころ旅追記 (平成27年11月15日)  正平が訪れた八戸蕪島神社が焼失してしまった  鑑定コラム1412転載

 火野正平の自転車によるNHK(BSプレミアム)『にっぽん縦断こころ旅』は、「2015年秋の旅」編が、2015年9月21日より始まっている。

 徳島県を出発地にして、沖縄を訪れる旅である。

 その番組の2014年7月の中旬頃放映されたもので、青森県八戸市にある蕪島(かぶじま)を訪れる旅があった。

 手紙の主は、60歳台の男性で、20歳台の若い頃、建設会社に勤めていた。

 青森八戸に転勤になり、先輩達と下宿の一室で寝起きしていた。

 先輩達は、休日になると家に帰ってしまい、いつも自分一人になった。

 寂しさを紛らわすために、ある休日に蕪島に行った。

 蕪島の海鳥のウミネコを見ていると何故か元気になってきた。

 自分を元気にしてくれたウミネコにもう一度会いたいと言う概略内容の手紙であった。

 火野正平は、投稿者のこころの風景である蕪島のウミネコに会うために、蕪島に向かった。

 途中の道中で、水田への育ての水を配る農業用水で、とても魚が釣れるとは思えないにわか作りの釣り具と餌で、遊びに興じている高校生達に会う。

 「おおいおい、こんなところで遊んでいる暇なぞ無いであろうに。勉強に精出さんか。」

と、云うのをためらわせる程、魚釣りの遊びに興じる高校生達は伸びやかで屈託無かった。

 この屈託無さに、人生を生き抜く力強さが、実は育ちつつあるのではなかろうかと思ってしまった。

 蕪島に近づくにつれて、空を舞うウミネコの姿が見えだした。騒々しくなった。

 大きな木の無い蕪島の岩肌に、白い点々がいっぱい目に入る。ウミネコである。島全体がウミネコだらけであった。

 上空には、ウミネコが舞う。ヒッチコックの映画「鳥」を思い出させる。

 どうしてこんなにもウミネコがいるのか不思議に思う。

 地上にうずくまるウミネコは、目には赤いアイラインをし、鋭いくちばしを持ち、キリッとした凛々しい顔をしている。

 近づくと、子育て中なのか鋭いくちばしで威嚇する。子を守る母親の姿は怖い。

 ウミネコに覆い尽くされた島の頂上に、平家建ての神社があった。それは蕪島神社と呼ばれる神社だった。

 神社に行く階段の登り口には、傘が多く置いてあった。

 何のために使う傘であろうかと思った。

 その傘は、上空を舞うウミネコの糞を避けるための傘であった。

 それだけウミネコが多いということである。

 その島の頂上に、ウミネコに囲まれるごとくあった蕪島神社が、2015年11月5日に、原因が分からず火事で焼失してしまった。

 火野正平が訪れてくれたことで知った蕪島のウミネコ、そして蕪島神社であるが、その神社が火事で無くなったことを知ると、余計、映像が想い出されて来る。

 心配な事がある。

 神社の火事の出火は、午前4時半頃だった。

 その時、ウミネコ達はどうしたであろうか。火事によって死亡したウミネコも多くいたのではなかろうか。

 火事は、ウミネコにとって、身の安全を脅かす相当ショックな出来事である。ウミネコは、蕪島を安全な島では無いと判断して、去ってしまったのでは無いのか。

 ウミネコは変わらずいるであろうか。


 蕪島のウミネコ、蕪島神社はどんな状況なのか、その写真のアドレスを下記に記す。クリックして見て下さい。

 青森県観光情報サイトのアプティネットの写真は、下記です。
   http://www.aptinet.jp/OR_0_640_00000029_1.jpg


 NHK(BSプレミアム)のスタッフが、当日撮った写真は、下記です。
   http://www.nhk.or.jp/kokorotabi/photo_album/img/photo_gallery/photo/2014sp_aomr_17.jpg


 ネットのウイキメデアに掲載されている写真は、下記です。
   https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/04/Kabushima%2C_-8_May_2010_a.jpg


            (「鑑定コラム1412」から転載)



*** こころ旅追記 (平成28年5月4日)  「桃の木よ 俺を覚えていないか」と囁く正平  鑑定コラム1482転載

 NHK-BSの火野正平の自転車による「こころ旅 2016年春編」が、2016年3月29日より東京の八丈島から始まった。

 東京、神奈川、山梨、長野、新潟を経て、日本海を北上し、北海道に行く自転車の旅である。

 2016年4月21日のこころ旅は、山梨県山梨市の「笛吹川沿いから見た桃の花のピンクのジュータン」の景色を求めての旅であった。

 2013年7月25日(247日目)に放映されたこころ旅は、山梨県の旧塩山市(現甲州市)の町に買い物に出かけ、山の上にある自宅に帰る急坂がきつく、必ず坂の途中にある木の休み台に座り休憩した。
 そこから見た旧塩山市の景色が忘れられないというものであった。

 その急坂にある木のベンチを尋ねてのこころ旅の途中に、正平が暑さを避けて休憩し、桃農家の畑で、桃作りの老人から手ほどきを受け、熟した桃取りをした。老人の横には若い娘さんがいた。

 2016年4月21日のこころ旅の手紙の差出人は、3年前の桃取りで遭遇した老人の傍にいた娘さんから、笛吹川沿から満開の桃の花を見て下さいという手紙であった。

 正平に桃とりを勧め、取り方を教えた老人(手紙の差出人である娘さんの父)は、その後、癌が原因で他界したが、放映された映像に父が映っており、桃作りで一生を終え、父が愛した満開の桃の花を正平に見て欲しいという父を思う娘さんの願いであった。

 笛吹川沿いの桃畑は、ピンクのいわゆる桃色の花で満開であった。

 正平は、3年前に途中休憩した桃畑を捜した。

 桃畑はあった。作業小屋もあった。

 しかし、作業小屋は手入れがされていず、何も無くがらんどうで荒れていた。

 3年前に桃をもぎ取った木を捜した。

 ピンクの花を付けて、桃の木はあった。

 通りかかった桃農家の人に、消息を聞くと、正平に桃とりを勧めた老人は亡くなっており、葬儀の時に正平との邂逅の映像が流されたという。娘さんは嫁いだと云う。

 正平は、3年前に桃とりをした桃の木に向かい、

 「桃の木よ 俺を覚えていないか。」

と囁く。

 そして、その桃の木の根もとで、こころの風景の手紙を読む。娘から天国にいる父へのメッセージである。

 桃作りで一生を終えた老人に、最高の供養を行った。

 こころ暖まる映像であった。

 この日のこころ旅を見た視聴者からの反響が、NHKの下記のこころ旅ブログに載せられている。涙、涙・・・のコメントである。
 
     http://www.nhk.or.jp/kokorotabi-blog/100/242835.html#comment


 2013年の夏のこころ旅の当日のこころ旅ブログは、下記である。

     http://www.nhk.or.jp/kokorotabi-blog/100/162743.html


 当日に、NHK映像部スタッフが撮った桃の花のピンクの絨毯の写真は、下記です。

     http://www.nhk.or.jp/kokorotabi/route_2016spring/20160421/img/photo.jpg


            (「鑑定コラム1482」から転載)



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