鑑定コラム1733)で、旧制四卒の園部逸夫氏について述べた。
身近であった旧制四卒の人について、もう1つ述べる。
去年、2017年12月11日の時事通信は、元文化庁長官、元東宮大夫の職にあった人の死亡を伝える。
そのニュースを知った時、即、知り合いにメール打って、問い合わせた。
「東京四会の会長が亡くならたのでは無いのか。」
知人からメールが返って来た。
「そうです。」
旧制四生の東京在住者が、「東京四会」を作っていた。
その会員も歳を取り、会の維持が困難になりつつあったため、東京在住の金沢大学卒業生が引き継ぎ「北の都会」として「東京四会」の存続を計った。
現在「東京四会」は、北の都会に吸収されているとはいえ、やはり東京四会として出席されている四生もおられる。
長い間その東京四会の会長をされていた人が、亡くなられたことを時事通信社が伝えていたのである。
亡くなられたのは、安嶋弥(やすじま ひさし)氏である。
安嶋弥氏は、金沢の南の石川県松任(まっとう)出身で、四から東大法学部に進まれる。文部省に入られる。
大臣官房長から初等中等局長になられ、1975年には第三代文化庁長官になられる。
そして1977年〜1989年までの間、宮内庁東宮大夫を勤められた人である。
北の都会にもよく出席されており、北の都会の講師として、講話され、私も2回ほど話を聞いた。
私が講話の講師になった時にも、私の拙い話にも耳を傾けられておられていた。
戦後の日本の教育行政を引っ張ってこられた幹部の中の一人である。
そして東宮大夫として、現在の天皇・皇后、皇太子のそば近くに侍従して来た人である。
私が北の都会で聞いた講話は、殆どが、四時代の思い出と学徒出陣の自省の話であった。
氏は『出陣学徒の自省』という著書を残されているが、学徒出陣の話は、そこに書かれている内容のものであった。
その著書に、東大法学部に入学して、学徒出陣について書かれている一部を転記する。
「昭和18年11月、小石川の植物園で東大法学部緑会主催の学徒出陣「壮行会」が行われた。学部長の末弘厳太郎が挨拶をし ・・・・・私は暮れ早い晩秋夕闇の中を何か空しい気持で帰途についた。今思えばそのとき、戦争はすでに山場をこえていたのである。そして海軍に入った。」
氏は、海軍予備少尉に任官し、レーダーの担当となる。
終戦は、九十九里浜で迎えた云う。
著書には、次のごとく書かれている。
「敗戦時には九十九里浜の南端、太東の見張所の所長であった。衣類の冬物を整理し、そこで果てる覚悟をしていた。」
海軍予備学生の同期の人々の名前が書かれているが、錚々たる人々である。
さすがに東大法学部であり、戦後の日本の官界を引っ張って行った人々である。
名前を少し記すと、下記の人々である。( )内は、戦後の役職である。
中橋敬次郎(国税庁長官)、松永信雄(駐米大使)、鎌田英夫(会計検査院長)、小島英敏(経済企画庁次官)、中村大造(運輸次官)、高木玄(厚生次官)、河合三良(行管次官)
民間では、鳥井道夫(サントリー社長)、宮岡公夫(日本郵船社長)の人々である。
講話資料として、安嶋弥氏が四生時代に教えを受けた教授達が写っている書類も配布された。その教授の写真の中に、歴史学の慶末光雄教授の若い頃の写真があった。
私は、金沢大学に入学し、大学1年生の教養課程の時、歴史の授業で慶末教授の講義を受講した。
教室で慶末教授を初めて見た時、金沢大学入学試験の世界史の試験問題は大変難しい問題が多かったので、この慶末教授が、難しい世界史の入学試験問題を作成した人なのかと思って、講義を聞いていたことを想い出す。
数学の木戸睦彦教授の写真も添付されていた。木戸教授に私も教養の数学の講義を聞いた。
今でも仕事に役だっている行列式、逆行列の講義であった。
木戸教授は現在でも存命である。数年前までは、「北の都会」に顔を出されていた。
安嶋弥氏の葬儀は、家族だけでひっそりと行われた様であるが、それでも死亡を知って駆けつけた人も多かったと、「北の都会」を代表して参列された幹事が、1月10日の北の都会の2018年1月例会において述べられていた。
葬式は、安嶋弥氏の人柄を現すごとく質素であったが、天皇・皇后そして皇太子・皇太子妃の献花が飾られていたと云う。
天皇・皇后そして皇太子・皇太子妃の献花が飾られるような葬式に今迄行ったことがないというのが、参列した幹事の言葉であった。
旧制四卒の東京在住者が作った東京四会を、東京在住の新制金沢大学卒業生に引き継がせることに尽力された安嶋弥氏のご冥福を祈る。
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