倉敷市内を駆けずり廻り、現地で行うべき調査の仕事を何とか2日間で終えた。
私は、倉敷を訪れるのは初めてであった。
ホテルは岡山で取っていたが、そのホテルの宿泊を1泊増やして、どうしても行きたいと思っている所を訪問した。
50数年前、金沢の学生の頃、金沢の石川県立美術館で、大原美術館所蔵の美術展が開かれていた。
事業で成功した一人の日本人の実業家が集めた絵画とはどういうものであろうかと、興味を持ち、私はその美術展を見に行った。
その美術展で見た幾つかの絵画が、強く脳裏に焼き付いていて、その後忘れられ無かった。
大原美術館は倉敷にある。
いつかは倉敷に行き、大原美術館を訪れ、金沢の石川県立美術館で見た絵画を、絵画の「自宅の自分の場所」にいる状態で見たいと思っていた。
それは、その絵画が最も似合いふさわしい環境に置かれているであろうと思うからである。
倉敷紡績の創始者の大原孫三郎氏が収集した絵画が展示されている大原美術館を訪れた。
美術館の建物の前面は、ギリシャ建物建築様式のイオニア式の石柱が立つものであった。
入り口の右側には、彫刻が立っていた。 それはロダンの彫刻であった。
美術館内の順路案内に従い進む。
大原孫三郎氏の命を受け、画家児島虎次郎が、パリで買い集めた西欧の絵画が目に入る。
「あっ ! 見覚えのある絵だ。クールベだ。 これもだ ! モデイリアーニだ。これはドガの踊り子だ。」
と、心の中で叫んだ。
それらのいずれもが、50数年前に見た絵であった。
寒々しく、荒々しいクールベの「秋の海」、ミレーの海の「断崖」、モデイリアーニの細長い顔を左に傾けた弱々しい女性の絵、ルノワールの髪を手で梳く裸婦、モネの「睡蓮」、ドガの踊り子、ゴーギャンのタヒチの立つ裸婦人等、いずれの絵画も50数年前に見た記憶を呼び起こさせる。
日本画では、小出楢重の「支那寝台の裸婦」、梅原龍三郎の「裸婦扇」、そして岸田劉生の麗子像の「童女舞姿」が懐かしい。
藤田嗣治の「舞踏会の前」の7人の女性を見た時、書物で多く目にする藤田嗣治のこの絵は、大原美術館の所有であったのかと驚いた。
50数年前に金沢でこの絵を見ていたのであろうかと、見たことを想い出せ無かった。
もう1つ想い出せ無い絵画があった。
それは、エル・グレコの「受胎告知」という絵であった。
エル・グレコの「受胎告知」は、日本に一つしか無く、それが大原美術館にあるものという。
50数年前に、この絵を金沢で見たのだろうか。私の記憶に無い。
展覧してある絵を見ていて、私を釘付けしたのは、鋭い目を前或いは下に向け、怖い顔をしたざんばら髪の女性5人が、手に果物を捧げて、殺伐した野原を、右から左に歩いて行く関根正二の「信仰の悲しみ」の絵を見た時である。
体の線が透けて見えるそれぞれ薄汚れた黄色、朱色、白色に緑、ピンクが混ざり合ったワンピース姿の裸足で歩く女性の異様さは、50数年経っても強烈な印象を与える。
それは、何かに向かって「生きよう」という凄まじさを感じさせる。
殆ど忘れかけていた関根正二という画家を、再び想い出させてくれた。
関根正二は20歳で没した。20歳で「信仰の悲しみ」という素晴らしい絵を残した。
この絵は、2003年(平成15年)に国の重要文化財に指定されたという。
今回、50数年振りに見た関根正二の「信仰の悲しみ」の絵は、私の好きな青木繁の「海の幸」を想い出させた。
画に描かれている人々の表情や行動等は真逆であるが、構図が良く似ている。
青木繁の「海の幸」は、裸の9人の漁師が大魚を肩に担いで、目は前や上に向かっており、大漁の喜びを体にみなぎらして、威風堂々と裸足で歩く姿である。それは右から左に向かう。
関根正二の「信仰の悲しみ」は、5人の女性は下を向き、下方にした両手で果物を持ち、何かにとりつかれながらも生きようとして裸足で歩く姿である。それは右から左に向かう。
青木繁、関根正二の生きた時代と年齢は、下記である。
青木繁 1882年〜1911年 29歳 関根正二 1899年〜1919年 20歳