○鑑定コラム



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51)ある裁判官の訃報

 東京地裁の総務課長から呼び出しがあった。何事かと思い、明治時代に建てられた赤煉瓦造りの古めかしい東京地裁の旧建物の階段を登った。およそ30年前の話である。

 所長代行がお会いになると総務課長から告げられ、応接室に通された。 応接室には、同じく呼び出されたのか既に二人の方が着席されていた。 二人は私より一回り半から二周り違う年輩の男の人であった。

 総務課長とともに所長代行が入室された。

 名詞交換等の挨拶の後、私を含めた男の一人一人に、不動産鑑定に対する考え方と今迄の経験等について穏やかに問いかけてこられた。東京地裁の民事通常部の不動産価格・賃料部門の鑑定人として評価依頼して良いかどうか判断する為の面接であるとそこで初めて分かった。

 裁判所の状況、安い報酬料、鑑定人としての仕事の厳しさと責任を話された。争訟解決の為に、いい鑑定をして欲しいといわれた。柔和な話し方であった。

 面接を受けた三人の男は、所長代行より東京地裁の不動産事件の鑑定人になることの許諾を得た。三人の男を面接した所長代行は安岡満彦判事であった。

 東京地裁には刑事と民事出身の二人の所長代行がいた。所長を代行する職務であるが、裁判官としての出世コースの地位にあると、後で弁護士より聞いた。

 知り合いの不動産鑑定士より電話があった。

 『判例時報』に私の鑑定が取りあげられている判例が載っているという電話だった。

 私は知らなかったから、早速その『判例時報』を買うために神田神保町の三省堂書店に行った。

 『判例時報』に載っていた判決は、地代の値上げ事件の判決であった。私が一審で鑑定人として評価した事件で、その事件の控訴審の東京高裁での判決であった。

 その判決内容は、私の鑑定書を良く読み、地代鑑定について深く立ち入り、考え方の不足している部分はその旨指摘されていたが、私の鑑定を全面的に採用した判決であった。

 判決は3人の裁判官の合議に寄るものであった。判決文の最後に3人の裁判官の名があった。合議裁判の裁判長の名前は安岡満彦判事であった。

 その名前を見た時、鑑定人になるための面接でお会いした時の顔と話がすぐ蘇ってきた。東京地裁の所長代行より東京高裁の部統括裁判官になられていたのかとその時知った。

 その後安岡判事は最高裁判所の裁判官までなられた。

 安岡満彦判事の訃報を2002年7月のある日の新聞物故者欄は伝えていた。

 話す機会はただの一度しか無かったが、私の鑑定は東京高裁、最高裁判事になられた安岡満彦判事が認め、支持してくれたのだということが、私の鑑定評価の仕事の強い心の支えになっていた。

 私と一緒に安岡判事の面接を受けた二人の男とは、一人は旧大蔵省関東財務局で国有財産の評価を長く行ってこられた不動産鑑定士の平野常雄先生であった。東京地裁の競売不動産の評価人の道を歩まれたが、今はもう居ない。

 もう一人は旧日本信託銀行で不動産鑑定、不動産仲介を長く行ってこられた不動産鑑定士の石政金男先生であった。東京地裁の借地非訟事件の鑑定委員、調停事件の調停委員として活躍された。現在も齢70をいくつか過ぎても元気に鑑定実務を行って居られる。そのタフさ、信念の強さには驚くばかりだ。


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