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447)50年前へのタイムスリップ

 中学卒業以来50年ぶりに、中学のクラス同窓会に出席した。
 何度も同窓会の出席の誘いを受けたが、東京から遠いことと、仕事との時間的な事等もあって出席しなかった。

 中学の同窓生の中に知恵者が居て、東京に来ている同窓生に、「東京で同窓会を開け」という案を出した。
 そうすれば不出席を続ける田原は出席するであろうという考えが隠されていたかどうか分からないが。

 「私が幹事をやって、東京で同窓会を開くから協力してくれ。欠席は許さないょ。」
と東京の幹事役の同窓生から聞かされた。

 「オイ、止めてくれ。
 俺はイヤだよ。」
と云ったが、幹事役の同窓生にこんこんと説得された。

 同窓会は熱海伊豆山温泉の旅館で開かれた。
 岐阜県の木曽の入り口、現在は中津川市に合併でなったが、合併前の地名で言えば、「岐阜県恵那郡坂下町」である。その町に1つしかない坂下中学の何年卒か忘れたが、50年前3年D組卒業同窓会が2008年7月初旬に開かれた。

 同窓会の開かれた熱海伊豆山温泉の旅館は、眼前に太平洋が広がり、旅館の前には熱海ビーチラインが走っていた。通行料金を証券化したあの熱海ビーチラインである。

 温泉のpHは8.2のアルカリ温泉であった。
 群馬草津温泉のpH2.0のごとくの強烈な酸性温泉では無い。

 33名の同窓生の内男女15名が出席した。
 JRを乗り継ぎ5〜7時間の時間をかけて熱海まで来てくれた。

 田原に会いたい?という訳では無いであろう。
 私は同窓生の中で、さほどの存在感も人望もあった訳では無いから。

 5〜7時間の時間をかけて、泊まりがけで同窓会に出席しょうとする動機、行動を動かすものは何であろうか。

 同窓会に欠席し続け、50年ぶりに出席した訳であるから、案の定、男性からも女性からも厳しく文句が突きつけられた。
 青春の甘酸っぱい苦い思いと共に人生に迷っていた自分が思い出され、心の中に突き刺さるものもあった。返事に困るものもあった。

 とはいえ、忘れかけていた懐かしい故郷の訛りに触れると、毎日東京で、不動産売買当事者や不動産訴訟事件の代理人弁護士から不動産の価格や賃料評価で真剣勝負を強いられ、また関与した訴訟事件で不動産の価格知識に甚だ疎いために浮き世離れしたトンチンカンな判決文を目にすると、判決文を書いた裁判官に対して、「不動産の価格とはどういうものかもっと勉強せよ。不勉強も甚だしい」と意見書で裁判官を叱り飛ばし、ストレスが多くいささか精神的に疲れて来ていた心は、イヤされてくる。

 石川啄木の、
 「ふるさとの 訛りなつかし停車場の 人込みの中に そを聴きに行く 」
のごとく、熱海で素朴で親近感の湧く、少年時代に使っていた故郷の言葉を聞く。

 「そんでョー、たるいテー、おんしはいいが、わしんたーちっともいいことあらへんに・・・・・・」

 夕食兼懇親会が始まる前に、亡くなった同窓生に対して、黙祷が行われた。これが、私が初めて知る同窓会の儀式なのか。

 同窓生の内7人が亡くなっていた。
 その中の一人に、韓国のソウル空港で会った友も含まれていた。
 黙祷の間、その亡くなった同窓の友を想い出していた。

 韓国から日本に帰る為の出国手続の順番を待っていた。パスポートを開き、韓国に一緒に来た同じ職業・職場の仲間と話していた。
 多分その内の一人が、「田原・・・」と私を呼んだと思う。その声を背後にいた人が聞き、私の開いているバスポートの名前を後ろより確認したのであろう。

 「タクジでは無いのか。」
とすぐ後ろから呼びかけられた。

 その声を聞いて飛び上がるごとく私は驚き、声のする後ろを振り返った。

 「俺だよ。」
と云って、中学卒業以来20年ぶりにみる同窓生の姿が、そこにあった。

 互いに韓国に何しに来たのか。近況の話そして同窓会に出ているのかという話になった。
 互いに同窓会には一度も出ていなかった。

 帰国手続の順番待ちの10分間程度の短い立ち話だった。
 彼がその後死亡したことを風の便りで知った。

 ソウル空港で会ったのが、中学卒業後最初で最後だった。
 黙祷の間、ソウル空港であった同窓の友の笑顔、姿を想い出していた。

 わざわざ熱海まで来てくれた同窓生の人々と、もっと多くゆっくりと話したかった。しかし時間があるようで無かった。

 逢うことが出来て、来て良かったという言葉を耳の奥に刻み込み、心残りを残して、新幹線熱海駅で西に去りゆく青春の友、友、友・・・に手を振って別れた。
 また逢う日があるかどうかと思いながら。

 同窓会に出たこともあり、我が故郷のことに付いて、ネットで町の歴史が紹介されていることから、それを紹介する。

 いささか照れくさいが、我が先祖のことも書かれている。
 書かれていることが全て本当かどうか知らないが、私の産まれた家の屋号が古殿、周囲の家々は代々屋号で殿外戸、番治屋、麦屋、あみだせ、しゃごじ、大力、岩出等と呼びあっていた。

 番治屋のバァちゃんが呼んでいるよと、子供の頃叫びながら遊んだ小さな集落の故郷を思い出す。


 我が故郷の歴史のアドレスは、下記です。ちょっと覗いて見て下さい。
   http://www.takenet.or.jp/~ryuuji/saka/furusato/219.html


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