2010年9月中旬の日・月曜日に、岐阜県中津川市の旅館で開かれた中学の同窓会に顔を出した。
今回は、中学3年の担任の恩師が出席されると聞いたので、是非とも参加しなくてはと思い参加した。恩師と呼べる先生と会えるのが、これが中学卒業以来最初で最後と思い、参加した。
前日・前々日の金曜日と土曜日は神戸での仕事だった。翌日曜日に故郷に直行して、父母の墓参りをして、午後4時集合という中津川の旅館に向かった。
大きな岩が周囲にゴロゴロしている山の中の古びた旅館であった。
19人の同窓生が参加した。
中学以来初めて会う人もいた。
恩師はやって来た。歳を聞けば85歳という。元気である。
学校では数学を教わった。
恩師は旧制八を出ておられた。
授業中によく、八と四の対抗戦の話をされていた。
私は、授業よりもそれらの話の方が記憶に残っている。
大学を選ぶ時、旧制八の名古屋大学か旧制四の金沢大学かどちらにするか迷った。
結局旧制四の伝統を引き継いでいる金沢の大学を選んだ。
恩師の話の影響があるかもしれない。
恩師にその旨話すと、金沢は学生を暖かく迎え、大切にしてくれる街であり、君の選択は良かったと言って下さった。
恩師は旧制八の応援団長として、2度金沢に行ったという。破れ帽子に羽織袴と高下駄で、金沢駅に降り、応援団旗を立てて大声で叫んだものょと話される。
「第八等学校、ただいま金沢に降り立たん。第四等学校に闘いを挑み、負かさんと参上仕った。!」
これに対して、迎えに来た第四等学校の応援団が迎えの応答をし、金沢の街を宿泊する寮まで応援歌を唄いながら練り歩いたと、昔を懐かしみながら話される。
そして四の応援歌である「南下軍の歌」(明治40年 高橋武済作詞 梁瀬成一作曲)を口ずさまれたのには、驚いてしまった。
アイン ツバイ ドライ
ただに血を盛る瓶ならば
五尺の男児要なきも
高うつむねの陣太鼓
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