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1181)開高健の『ベトナム戦記』

 NHK−BSプレミアムの火野正平の自転車のこころ旅「2013年秋の旅」編は、平成26年2月2日に終了した。

 その最後の放送で、火野正平は、好きな作家という開高健の言葉を残して、テレビ映像から去って行った。

 開高健の名前が、火野正平の口から飛び出てくるとは思ってもいなかったが、その名前を聞いて、懐かしくなった。

 私の心に残る開高健とは、『ベトナム戦記』の開高健であることから、その作品を再び読んでみようと図書館に行き、それを借りてきて読み直してみた。

 ずっと昔の大学時代に読んだことゆえ、内容は殆ど忘れていたが、読み進むにつれて、思い出す個所が2、3個所あった。

 その個所は、私が初めて知り、それは現在も私の知識となっているものであった。

 私の知識の1つとなったのは、この本のここだったのかと、知識の源を探り当てた喜びを感じつつ読み進んだ。

 開高健の『ベトナム戦記』は、昭和40年(1965年)1月8日〜3月12日の『週刊朝日』に連載された開高健の南ベトナムから送られた戦記レポートに筆を加えて、昭和40年3月26日に、朝日新聞社から発行されたドキュメンタリーである。

 その『ベトナム戦記』の書き出しは、次の記述から始まる。

 「どの国の都にも忘れられない匂いというものがある。」

 開高健の云う匂いは、パリは冬の夜の焼栗屋の火の匂い、初夏の北京は、合歓木の匂い、ワルシャワはすれ違いう男のウォッカの匂い、ジャカルタは、椰子の油の匂いと云う。

 そしてベトナムの匂いは、「ニョク・マム」の匂いと云う。

 『ベトナム戦記』は、開高健がベトナム戦争の砲火の中、南ベトナムの北から南まで全土を訪れたレポートである。

 ポケットには、日の丸の旗を入れていたという。

 その日の丸の旗には、「私ハ日本人ノ記者デス」「ドウゾ助ケテ頂戴 」とベトナム語で書かれてあり、身の危険を感じた時、その日の丸を広げて助けてもらうためという。

 通訳を付けず、秋元啓一カメラマンと二人での取材である。

 アメリカ軍への取材のほか、南ベトナムの農村や都市も取材している。

 南ベトナム各地の取材は、各地にある仏教寺院に行き、仏教僧に取材し、情報を得ている。

 ベトナム語の分からない開高健の取った会話方法は、漢文の筆談だった。
 仏教僧は漢文の素養が必ずあるから、漢文の筆談で会話をした。

 例えば、

 「於西貢我聞激烈戦争展開於全南方地帯」

と開高健が坊さんに紙に書いて聞くと、坊さんは、

 「然在此戦争無有達観於佛教」

と答え、加えて、

 「現在政府陳文香欲消滅佛教」

と紙に書いて返事した。

 上文を意訳すれば、

 (全南部では戦争が激しいとサイゴンで聞きます。)
 (それはそうだが、戦争があるか無いかというようなことは、仏教では達観しています。)
 (現在のチャン・ヴォン・フォン政府は、仏教を消滅させようとしています。)

という内容か。

 ベトナムは、1000年間の中国支配の後、80年間のフランスの植民地となる。
 ベトナムは今迄苦難の道を歩んできている。

 『ベトナム戦記』の文中、ベトナムをメチャクチャにしたのは、フランスであると云うフランス非難の文言も出て来る。

 ベトナム戦争に介入したアメリカ軍は、最盛期には50余万人の軍隊を投入したが、多くの犠牲を払って、結局負け、1973年にベトナムから全面撤退する。

 ベトナム戦争の歴史については、別の本で勉強して欲しい。此処では詳しく述べない。

 南ベトナム政府が反政府のベトコンと闘い、政府側が形勢不利な状態になると、アメリカ軍が南ベトナム政府にてこ入れし、軍事介入した。

 そうした時期である1964年、1965年に開高健は、南ベトナムに入っているのである。
 開高健が、命を懸けてベトナム戦争取材した状況が、『ベトナム戦記』に描かれている。

 突然、「森のなかで銃声がひびいた。マシンガンとライフル銃とカービン銃である。・・・・・・肘で這って倒木のかげへころがりこんだ。鉄兜をおさえ、右に左に枯葉の上をころがりまわった。短い、乾いた無数の弾音が肉薄してきた。頭上数センチをかすめる瞬間があった。」

 ベトコンの襲撃に襲われ、森から逃げていると、「ライフル銃と自動銃のすさまじい掃射が私たちの背を襲った。私の直後、秋元キャパの真横を走っていたベトナムの大尉が右肩に貫通銃創をうけてたおれた。私はバグを捨てて走った。」

 この時開高健は34歳、死を覚悟したという。

 この死を覚悟せざるを得なかった体験が、その後の開高健の人生の生き方、ものの見方に大きな影響を与えたのでは無かろうかと私は思う。

 私の記憶がよみがえってきた個所の1つは、下記の個所であった。

 日本が太平洋戦争に負けて、大半の日本人兵士は日本に引き揚げたが、日本に帰らず、ベトナムに残り、フランスからのベトナムの独立戦争に参加したと云う個所を読んだ時である。

 ベトナムに残った旧日本軍の軍人が、ベトナムの農民に武器の使い方、戦略の立て方、闘い方等を教え、指導し独立戦争に参加した。

 このベトナムの農民がベトミンとなって、ベトナムの独立戦争を闘いフランスの植民地から独立したのである。

 南北のベトナムに分かれた後、南ベトナム政府打倒に立ち上がった農民の戦闘集団は、ベトコンと呼ばれている。ベトミンとベトコンとは異なるのである。

 残留した旧日本軍の兵士から戦闘の闘い方を教えられたベトナム農民が、南ベトナム戦争に再び参加し、ベトコンとなって南ベトナム政府と闘った。

 旧日本軍人の幾人かが、日本に帰らず、北ベトナムの独立戦争に参加し、北ベトナムの独立の手助けをし、死んで行ったと云う事実を知ったのは、この開高健のベトナム戦記であったことを思い出した。

 竹山道雄の『ビルマの竪琴』で、旧日本軍人がビルマの僧侶として残ると云うのはフィクションであるが、フイクションでない旧日本軍人の事実としての生き方が、ベトナムではあったのだと知ったのである。

 『ベトナム戦記』では、「当間氏、工藤氏、中村氏」と実名が記されている。

 戦記のなかで、カメラマンの岡村昭彦、読売新聞の日野啓三記者が登場する。 懐かしい名前である。

 二人は、ベトナム戦争の取材報道に従事していたのかと改めて知る。

 記憶をよみがえらせてくれたもう一つの記述がある。
 それは、南ベトナムでダムを造り、発電所を造る日本の企業の人々の姿が描かれている個所である。

 日本工営、間組、鹿島建設等の企業が、南ベトナムのダム、発電所、送電線工事建設に進出し、それに伴い日本人の技術者が南ベトナムに行っていた。

 最盛期には300人程度の日本人技術者が、それらの工事のために南ベトナムで働いていた。

 工事の難問題は、ダム、発電所建設工事で無く、サイゴンまでの送電線の設置工事である。

 ベトコンの支配地域を通らざるを得ない。
 ベトコンに妨害され、鉄塔が壊され、送電線が切断されてはかなわない。
 事実そうしたこともあったようだ。

 ダム建設、発電所建設、送電線設置工事を行う日本人の所長は、ベトコンに申し入れを行った。

 「われわれは日本人である。
 賠償でダムをつくっている。
 ベトナム戦争には何の関係もない。

 むしろ安い電気をベトナム人民に提供することになるのだから、政府が使おうがあなたがたが使おうが、この国を益することに変わりはない。

 もし、破壊したければ、建設が完成して政府に引き渡したあとで破壊すればよいではないか。

 破壊するのは一瞬でできる。
 建設には大変な努力がいる。

 われわれは、あなたがたを邪魔にしないから、あなたがたも邪魔しないで頂きたい。」
と。

 この申込に対して、ベトコンはすぐに諒解し、妨害を停止したという。

 『ベトナム戦記』の最後に、ベトコンが日本に対して思っていることを開高健は記す。

 ベトナム戦争のあとのベトナムの今後について、ベトコンが自ら起草した下記の文章を書き示す。

 「恐ラク日本人ガコレラノコトニツイテ何事カヲ示唆シ得ルデアロウ」

 「コレラノコト」とは、ベトナム戦争終了後のベトナムの政治、経済、社会等の国造りの事である。

 開高健は、ベトナム取材で、日本人はベトナム人から頼りにされているということを実感し、それを文章に残したのである。



(追記) 26年3月19日 サン・ベトナム社会主義共和国主席の来日

 現在日本に、ベトナムの大統領に相当するサン・ベトナム社会主義共和国主席が来日されている。
 国賓として来日され、天皇皇后両陛下と会見され、宮中晩餐会が開かれた。
 安倍首相との会談の模様がテレビ放映され、安倍首相が今後の日本とベトナムとの友好関係について、テレビのインタビューに応じていた。

 平成26年3月19日の時事通信、日本経済新聞が報じる3月18日の「首相官邸」の首相の行動の記載事項から、サン主席の行動を見ると、下記のごとくである。 日時は3月18日である。

 12時11分 ベトナムのチュオン・タン・サン国家主席の国会演説
 17時45分 サン国家主席と首脳会談
 19時0分  共同署名、共同記者発表
 19時26分 首相夫妻主催の夕食会
 20時47分 サン国家主席夫妻を見送り


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