772)美知子という名のおばあちゃんが営む坂下駅前の小さな喫茶店
五月末の大型台風というのも珍しいが、その台風のもたらす土砂降り雨の降
る昼、小さな駅に降り立った。
東京の自宅を早朝に発ち、JR中央線、東京駅より新幹線のぞみ、名古屋駅で
中央西線の特急、中津川駅より各駅停車の列車に乗り継いで来たこともあり、
腹が減ってしまった。
何かうどん店とか中華ソバ店と言う類の飲食店はないかと、駅前を眺めた
が、それらしきものは無い。
西部劇に出て来るような外観をした建物が駅広場の向こうにあった。
その建物の右端に、間口およそ2間くらいの小さな喫茶店が目に入った。
営業している様だった。
「この際、喫茶店でも良かろう。
何か食べ物を作ってくれるだろう。」
と思い、土砂降り雨の駅前広場を、小さな折りたたみ傘に身を包んで横切り、喫茶
店に走り込んだ。
間口は狭いが、奥行は随分と長い店だった。
頑丈な部厚い木のカウンター、これまた頑丈な木材で作ったテーブルと椅子が店内の
主な造作である。
奥にちょこんと小さなからだのおばあちゃんが座っていた。
留守番役の人かなと最初思った。
それは違っていた。どうもこのおばあちゃんが、この喫茶店の店長兼経営者
のようであった 。
「何か食べるもの作って頂けますか。」
と尋ねた。
小さい体であるが、品の良い感じがするおばあちゃんであった。
若い頃は、さぞかし美人であったろうと思わせる面影が残っていた。
私を見上げながら、
「ウーン・・・・・・、ピラフなら・・・・・」
という。
「それで良いです。コーヒーを付けて」
と頼んだ。
椅子に座り店内を落ち着いて見渡すと、壁のあちこちに草花の絵がかざって
ある。
絵好きのおばあちゃんかなと思い、ピラフの出来上がるのを待った。
結構時間がかかる。
そんなに時間に余裕あるわけでは無い。
というのも午後1時までには、神社で開かれる古稀のお祓いの式に出なくて
はならない。ここまで来て遅れる訳には行かない。
私は早生まれであり、古稀にはまだかなりの時間があるが、故郷の中学の同
窓生が集い、古稀のお祓いを行う催しの機会を作ってくれた。
その式に出席する為に、坂下という故郷の町に帰ってきたのである。
10年前には還暦のお祝いも行ったようであるが、その時私は欠席した。
今日、古稀のお祓い式に出席するのは、もうこれが最後の中学の同窓生と会
える機会と思い、故郷に帰ってきたのである。
会う同窓生の殆どは卒業以来初めての人達ばかりであろう。
中学卒業して53年経っている。
果たして顔がわかるであろうか。
名前を想い出す事ができるであろうか。
それらの不安が大きかった。
大きな皿に湯気が上がるピラフをおばあちゃんがテーブルに運んで来てくれ
た。
空き腹にピラフをかき込み入れた。
少し空腹感がなくなるとピラフを食べながら、おばあちゃんと話した。
「おばあちゃん・・・、ここで長いの?」
と問うた。
「30年やっているょ。」
という。
「えっ、30年もここで喫茶店を開いているの。
というと、在は坂下なのですか。」
「そうょ。本町の野村だょ。
・・・・・・そう言うあなたは坂下の出身なの?」
「ええ。
おばあちゃんほど坂下に住んでいなかったが、高校生まで、18歳で坂下を去
りました。
今日は何年ぶりかで、坂下駅に降りました。時々は坂下に帰っていました
が、殆ど車でしたので、駅は全く利用していませんでした。」
「坂下のどこょ・・・・・」
「高部です。」
「高部? ・・・、高部の誰?」
「田原という姓です。」
「・・・・・・田原先生の息子さんか?
むっちゃんの弟さんか? 」
むっちゃんの名前が出て、こちらの方がびっくりしてしまった。私の姉の名
前である。
「そうです。息子の拓治です。むっちゃんは私の姉です。
どうして私の父を、姉のむっちゃんを知っているのですか?」
「あなたのお父さんと同じく、私の兄も先生をしていた。
兄とそちらのお父さんとは、二人でしょつちゅう酒を飲んでいた。
むっちゃんは、詩吟の会とかいう会が終わると、いつもここで2,3人でコー
ヒーを飲んでいるょ。」
イヤハヤ世間は狭い。
翌日実家で聞いて確かめたら、その通りであった。
おばあちゃんの名前は「美知子」というようで、苦労されて戦中・戦後を生
き抜いて来られてきた様だ。その人生は、事実は小説より奇なりと言われるごとくの苦難な女の一生であったようだ。
「たかいしかけ」という懐かしい名前の屋号も飛び出て来た。屋号で話が飛
び交う。私の噂も同じように屋号で飛び交っていたのかも知れない。
そしてこれまた懐かしい「椛の湖ジャンボリー」の名前が出て来た。
どうも私と同級生の女の子の叔母様のようだ。
翌日東京に帰る前に、もう一度、美知子という名のおばあちゃんが営む小さ
な喫茶店に顔を出し、話して別れた。
ピラフを食べ終え、コーヒーを飲みながらも美知子おばあちゃんとの話が続
き途切れない。
美知子おばあちゃんは、神社はタクシーで行けば5分とかからなく、すぐ行
けるからまだ大丈夫と言って、13時ギリギリ近くまで私を離してくれない。
駅前だからタクシーは喫茶店内からガラス越しで見える。
雨が降っていることもあってか、タクシーを店前にまで呼ぶかともおばあちゃんは言う。
冗談ではない。20メートルと離れていないのだから、自分でタクシー乗り場に停まっているタクシーまで走って行くと言って断った。
駅よりタクシーに飛び乗り、坂下神社に、お祓い儀式始まるギリギリに何とか駆けつける事が出来た。
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鑑定コラム724)「北の都会講演『地価17年周期説』」
鑑定コラム810)「阿寺断層が東北大震災の影響を受けて要注意という」
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