20年前に、支払賃料の100ヶ月分の保証金を支払って入居している店舗の支払家賃(単価 以下同じ)と、保証金を全く支払わずに最近入居した同じフロアの店舗の支払家賃とは同じであろうか。
一般的に保証金は10年据え置いて、10年後から元金均等無利子で10年間で返済するという条件が多い。案件の場合もそういう条件で有り、保証金の返却は契約通り借主に戻ってきていた。残金は極めて少なくなっていた。
貸主は保証金が残り少なくなってきたこともあるのか、或いは別の目的があるのか、何を思ってか、支払賃料を約60%値上げ要求してきた。借主は冗談では無いと値上げを拒否した。
そうしたら貸主は、貸主の要求に近い賃料の不動産鑑定書を添付して裁判所に賃料増額請求の訴訟を起こした。貸主は日本でも指折りの大企業である。
借主は鑑定書の内容等がおかしいと準備書面で反論したが、地裁の裁判官は訴えた企業が日本でも指折りの大企業であった為か、盲目的に大企業は悪いことをしないという予断をもっているのか、或いは借主側提出の準備書面をろくすっぽ読まなかったのか、原告側即ち賃貸人の主張をそっくり認めて約60%の賃料増額の判決を出してしまった。それは原告側提出の不動産鑑定書の内容をそっくりそのまま判決に採用してしまっているのである。
裁判官は、不動産鑑定の専門家の判断であるのだからといって、不動産鑑定書を信頼して判決を書いたのであろう。
そこまで信頼して頂けることは不動産鑑定士としては有り難い。
その信用力というものは、長い間の優れた先輩不動産鑑定士達が裁判鑑定で培ってきたものである。
しかし、その多くの優れた先輩の不動産鑑定士によって築き挙げられた不動産鑑定士への信用力が、杜撰で論理的に間違っている不動産鑑定書にも通用し、無条件で適用されるとなると問題である。
判決は、賃借人側の主張は全く考慮せず、賃借人はいろいろ述べているが、それらは賃料値上げを阻止する合理的理由にはならないというごとくの極めて簡単な一行程度の文章で切り捨てている。
この判決に対して、賃借人そして代理人弁護士は烈火のごとく怒った。
理不尽な家賃の鑑定が罷り通り、その鑑定書がおかしいと指摘しているのにもかかわらず、その指摘を一顧だにもせず、従前賃料の約60%もの賃料値上げを認める判決を出すとは何事か。賃料が値上っている時ならばともかく、現在は賃料が値下っている時である。そのことを知っているのか。
判決も判決であるが、約60%の値上げを適正と書いた不動産鑑定士はなお悪いと息巻く。
その不動産鑑定書を書いた不動産鑑定士を、不当鑑定で懲戒処分の申し立てをしたいと弁護士はいう。
その前に高裁に控訴するについて、正当な家賃鑑定書を反論として出さねば一審の判決を覆すことは出来ないと判断し、不動産鑑定士を捜した。
4人ほどの不動産鑑定士に当たったが鑑定を引き受けてくれる人がいなく、そのうちの一人が、「田原さんしかそれは出来無いだろう」と私を紹介してくれたと言って、依頼人は私の所に電話してきた理由を話す。
4人ほどの不動産鑑定士が何故鑑定を断ったか、いろんな理由があろうが、それら理由は私は知らない。
なんだか厄介者払いのごとくの仕事の扱いでは無いのかと思ったが、依頼者の話に耳を傾けた。適正な家賃評価をして、依頼者本人の味方になってくれる不動産鑑定士を捜していると感じた。
代理人弁護士とも会い、判決のベースになっている不動産鑑定書を読んで、不動産鑑定を引き受けることにした。
貸主側提出の、そして判決が採用した鑑定書は、多くの間違いのある鑑定書であった。
その中の一つに保証金の100ヶ月の扱い方に根本的な大きな間違いがあった。
貸主側の鑑定書は実質賃料から、残り少なくなっている保証金の運用益を差し引くだけで、支払賃料を求めている。100ヶ月分の保証金の授受のことなどは賃料には全く関係せず、残っている部分の運用益のみが支払賃料に影響すると考えているのみである。
保証金の残額が極めて少なくなっているため、その僅かな運用益を実質賃料から減額するだけであるから、支払賃料は甚だ高く求められることになる。
鑑定の支払賃料は、保証金の支払いゼロの店舗の支払賃料とほぼ同じ水準の賃料である。
従前賃料より約60%の賃料の増額という鑑定である。
貸主側は大喜びの鑑定書である。
支払賃料の100ヶ月分の保証金はどれだけの価値に相当するのか全く分からず、考慮すらしていない。支払賃料の100ヶ月分の保証金があれば、その金額で当該店舗建物が建てることが出来る位の金額なのである。この保証金の要因存在に全く気づいていない。返済して手許に残っている額の運用益のみが賃料形成に関係しているとしか考えていない。
銀行から建物建築の金額を借りなければならないのに、その必要が無く保証金で賃貸する店舗建物が建てられるのである。それだけの利益を貸主は得るのであるのだから、その保証金を提供する借主側にはそれに相当する見返りがあってしかるべきである。それが借家権という権利として発生するのである。
借家権の権利の発生を具体的に数値をあげて以下で説明する。
月額60万円の賃料とする。
保証金を100ヶ月分とすると、その金額は、
60万円×100=6,000万円
となる。
年間賃料収入は、
60万円×12ヶ月=720万円
である。
これをグロス5%の還元利回りで回るとすると、
720万円÷0.05=14,400万円
となる。つまり、月額60万円の賃料の店舗の価格は14,400万円ということである。
一方、借入金利を7%とする。現在から20年ほど前の頃の借入金利はその位であった。
店舗建設のため銀行より借入れするとした場合、保証金の6,000万円分は借入れする必要性がない。
6,000万円×0.07=420万円
420万円の金利を支払わなくて済むことになる。
10年間では
420万円×10=4,200万円
の金額となる。
14,400万円の価格に対する割合は、
4,200万円÷14,400万円= 0.291 ≒ 0.3
である。
即ち、支払賃料の100ヶ月分の保証金は、30%の価値に相当するのである。それだけ100ヶ月分を受け取った側は得したことになる。支払った側は、それだけの権利(借家権)というものを得たことになる。
これが借家権価格割合30%の発生のメカニズムである。
実質賃料が100万円と求められたとすれば、
100万円×(1−0.3)=70万円
70万円が経済価値に即応した当該店舗の実質賃料なのである。
この70万円から共益費等を差し引いて支払賃料を求めるのである。
借家権は必ずしも上記のごとく30%になるとは限らない。20%になるかもしれない。
いずれにしても多額な一時金の授受があれば、家賃評価の場合、借家権の発生を考えなければ、継続賃料の評価で失敗する。
保証金が返済されて貸主には手許に残っていないからといって、保証金ゼロの賃料と同じにしてよいというものでは無い。
賃借人は保証金100ヶ月分を支払ってくれて、賃貸人の財産形成に多分の寄与してくれたのである。そのことは支払賃料に反映されなければならない。
賃貸人の財産形成に全く寄与していない、新しく保証金ゼロで賃借する人と支払賃料が同じでは、保証金100ヶ月分を支払って長く借りている賃借人が怒るのは当然であろう。
『不動産鑑定評価基準』は、経済価値に即応した賃料を正常賃料という。
その正常賃料は、大部分の場合は新規実質賃料を指すが、上記のごとく、保証金など一時金を支払賃料の100ヶ月分というごとく多額の金銭が授受されている場合には、その要因を充分考慮した賃料が「経済価値に即応した賃料」ということになる。
本鑑定コラムには賃料に関する多くの記事があります。下記に一部紹介します。
鑑定コラム226)家賃より地代を求める家賃割合法
鑑定コラム214)共益費は賃料を形成しないのか
鑑定コラム236)従前合意賃料は妥当な賃料だったか
鑑定コラム219)家賃評価の期待利回りは減価償却後の利回りである
鑑定コラム68)賃料と改正鑑定基準
鑑定コラム71)差額配分法と私的自治の原則
鑑定コラム101)基礎価格の再認識の必要性
鑑定コラム918)「建設協力金とは」
鑑定コラム1902)「著書の中の保証金についての著述」