毎月1回「4」の日に、東京銀座7丁目にある「ライオン銀座7丁目店」6階ホールで、旧制四卒業生と金沢大学卒業生合同の『北の都会』(旧名『四会』)が開かれている。
私は、大学の同窓生に参加を以前より誘われていたが、仕事が忙しいこともあって、参加を断っていた。
しかし、自身考え方がどう変わったか分からないが、時間の許す限り会合に出てみようと、最近思うようになった。
何故そうした気持ちになったのか、自身分からない。
歳か。
2010年4月は、4日が日曜日であった為、6日に会は開かれた。
第685回の月例会である。
1年に12回開かれるのであるから、685回ということは、
685÷12=57年
57年続いていることになる。勿論旧制第四等学校の『四会』からの回数を入れての年数である。
よくぞ57年間も続いているものと感嘆したくなる。
『四会』から金沢大学卒業生が主体になる会への移行については、旧制第四等学校のOBの中には強い反対もあったと聞く。
しかし、会が無くなるよりも、同じ金沢で学び、同じ校舎で勉強した若い世代の金沢大学卒業生が、会を引き継いでくれて、会が存続する方が良いではないのかという意見が多数を占め、旧制第四等学校の『四会』とその後身である金沢大学OB会とが一緒になって、『北の都会』の名称として、『四会』が存続することになった。
会の運営は、実質的には、金沢大学卒業生が行うことになった様だ。
旧制四の最後の卒業生も、現在80歳をとっくに過ぎており、会の運営を現実には体力的にはやって行けない事情もある。
第685回の『北の都会』は、4月6日と云うこともあり、昭和16年4月6日琵琶湖で四漕艇部員と卒業生を含む11名が、漕艇練習中に比良おろしがつくる高波に艇がのみ込まれて遭難し、帰らぬ人となった哀悼の会であった。
その琵琶湖遭難で無くなった故福富不二男氏の妹さん(香川百合子氏)を講師に招き、兄を想う話と中川淳子氏の琴の調べによる追悼であった。
琵琶湖遭難で無くなった故福富不二男氏の妹さんの話は、兄である故福富不二男氏は、樺太から金沢の四に入学した。
四を卒業し京都大学への進学も決まっており、京都大学入学前までの間に、四漕艇部の合宿に先輩として参加していたのである。
父は樺太におり、兄は四卒業後は父のいる樺太には戻らず、京都大学の入学式に行く前に、東京の母の実家に帰ってくると云うので、妹さんと母は、四を卒業した兄の帰りを、東京の母の実家で待っていた。
大学の入学式が近づくのにも係わらず、いつまでたっても、兄は東京の母の実家に帰ってこなかった。
来たのは、兄が琵琶湖で遭難死したという悲報であった。
「何故・・・・・」
が家族一同の思いであった。
樺太にいた父は、一人息子の琵琶湖遭難死に驚き、日本に急ぎ帰って来たが、落胆は激しく、一人息子が学生時代を過ごした金沢に居を移し、息子の姿を追い求める人生を過ごしたと妹さんは語る。
兄を琵琶湖で亡くした妹さんの話を聞きながら、妹さん家族の無念さを思いやると、涙が出てしまった。
これからという若い人が、琵琶湖遭難で、人生を終えてしまった。
残念である。
東京で四漕艇部の琵琶湖遭難の哀悼会が開かれると、人づてに聞かれたのか、滋賀草津にお住いの琴奏者の中川淳子氏が、会に駆けつけて下さった。
中川淳子氏は、一昨年(2008年)の「源氏物語千年紀」の記念行事で、紫式部が源氏物語を書いたと云われる石山寺の「国宝如意輪観音菩薩像」の御前で、箏曲「紫式部」(作詞:鷲尾光遍大僧正 作曲:萩原正吟)を演奏された人である。
その様な著名な琴箏曲奏者が、わざわざ東京の会にまで来て頂き、琴の調べで哀悼して下さるとは、人の心の美しさを改めて知った。クリックすると写真が拡大されます。
中川淳子氏の「琴による四漕艇部の琵琶湖遭難の哀悼の調べ」は、「四漕艇班遭難追悼歌」に始まり、石山寺で奏じられた箏曲「紫式部」、そして最後は、続後撰和歌集に収録されている平兼盛が詠んだ和歌に、宮城道雄が曲をつけた「比良」であった。
見わたせば 比良の高根に 雪消えて 若菜つむべく 野はなりにけり
遠くかすむは彦根城 波に暮れゆく竹生島 三井の晩鐘・・・・・・・
比良の白雪溶けるとも 風まだ寒き志賀の浦 オールをそろえてさらばぞと しぶきに消えし若人よ
1.思い出づる調べも哀し 春深く水藻漂ふ志賀のうみ かの日風立ち雲たれて 呼び応うこだまのみ たそがれに流れゆきぬ 2.・・・・・・・ 3.・・・・・・・ 4.沖の島に春の陽てりて ほのぼのと霞み渡れり 岸近くさまよいゆきて砂にぎり 砂握りしめ夕なみに いまはなき友を偲びぬ 5.・・・・・・
『金沢大学写真で見る50年』 (著者金沢大学創立50周年記念事業後援会写真集編集委員会) 第一章多彩な前身の時代 T節 四の伝統